天と地のあいだのはなし

その8の3:空と風のはなし



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● 第三章 灼の月U〜旅立ち

 朝、レミットはいつもより早く目を覚ました。
 旅立ちの朝……
 見回した部屋の中はいつもの朝と何も変わっていない。
 だが、レミットたちが旅立てば、数日もしないうちにすべてが片づけられ、
彼女たちがこの街にいたことを示すものは何もなくなってしまうだろう……そ
んな感傷が、レミットの胸の内にふっとわきおこる。
 しかし、その感傷は別の喜びが一瞬にしてかき消していく。
 ゆうべアイリスから聞かされた、魔宝をもう一度集めてリュウイチを呼び戻
すという計画。
 おかげでゆうべは、久しぶりにぐっすりと眠ることができた。いや、寝付く
までは胸がドキドキして、きゅっと締め付けられる感じがして、そして待ち遠
しくて……
(リュウイチが戻ってくる!)
 それはまさにレミットが望んでいたことだった。
 レミットはベッドから跳び降りると、パジャマを脱ぎ捨てて前の旅の時に着
ていた服に袖を通した。赤い大きな襟とリボンのたくさん付いた白のワンピー
ス。ゆうべ、アイリスが出してきたのだ。
 丈をなおしたのか、少し背が伸びた今のレミットにぴったりだ。
 自然に笑みがこぼれる。
 踊り子のようにクルクルと回ると、ふわりとスカートの裾が広がる。
 レミットは、鏡に映る自分の姿にふと目をとめた。この半年で、背も高くな
ったし、髪も少し伸びた。
(リュウイチ、気づいてくれるかしら……)
 リュウイチに会ったら何から話そうか、いろんなことがあったけど、でもやっ
ぱりリュウイチがいないと退屈で、そして、そして、とてもさびしくて……
想えば想うほどに胸が高鳴っていく。
 顔がぽおっと熱くなるのを感じて、レミットは大きく深呼吸をする。
 ようやく落ち着いてきたその時だった。
「おはようございますっ、姫様」
 ノックの音と、アイリスの元気な声がした。
「おはよ!アイリス」
 レミットも負けずに答える。
 かちゃりと扉が開きアイリスが入ってくる。
 着替えを済ませているレミットを見て、アイリスはにっこりと微笑んだ。
「姫様、丈の方はよろしかったですか?」
「うん」
 レミットはアイリスの方をじっと見上げた。
 いつも側にいてくれる、何でもわかってくれている……
 ぽそりとレミットはつぶやいた。
(ありがと、アイリス)
「え?」
 聞き返すアイリスに、レミットは照れくさそうな顔をしながら小走りに部屋
を出た。
「さ、行くわよ、アイリス」
「あ、は、はいっ、姫さまっ」

        §    §    §

 カレンたち魔宝探索組の一行はソーブルの湖の上にいた。
 前の冒険の経験をもとにソーブルの湖を迂回を試みたのだが、陸路はただで
さえ迷いやすいほど深い森が続いているうえ、湖に流れ込む川や滝に阻まれて
いた。さらには、足下がおぼつかなくなるほど深い茂みに覆われているなど、
水上を行くより危険だと判断したのだ。
 そして彼女らはふたたび船で行くことを選んだ。
 船は静かに進む。
 時折吹く風に湖面がさざめくほかはとても静かで、もし誰かが彼らの様子を
岸から見ていたとしても、まるでピクニックに来た若者たちがのんびりと湖に
船を出しているようにしか見えなかっただろう。
 船は鏡のように静かな湖面を進んでいたが、突然、へさきの方からどおんと
大きな水音があがる。
「出たぁ!」
 キャラットが指さした先には、サーペントがのたうっている。
 サーペントはぐるりと頭をめぐらせると、彼女たちの船に猛スピードでせまっ
てきた。それを見て、カイルがすばやく舵を切る。
「よけて!」
 リラの声にカイルがどなり返す。
「やっている!」
 とはいえ、舵を切ったからといってすぐに曲がるものではない。
 しかも、サーペントはただ進んでいるわけではない。船をめがけて突っ込ん
できているのだ。
 サーペントが目の前に迫る。
「間に合わねえ!」
「エナジー・アロー!」
 カイルの叫び声に応えるように、鋭く呪文がとぶ。
 キャラットだ。
 まばゆい光が矢のように刺さる。呪文そのものはあまり利いてはいないよう
だったが、とりあえず牽制にはなったらしく、サーペントはいったん水の中に
もぐる。
「さ、来るわよ!」
 カレンのかけ声に、全員が攻撃態勢をとる。
「ギャオオオーーース!」
 サーペントが左舷に姿をあらわした。
 最初に動いたのはリラだった。腰だめに構えていた二丁のクロスボウのトリ
ガーを立て続けに引き絞る。
「ギョアッ!」
 放たれた二本の矢は吸い込まれるようにしてサーペントの腹に命中する。
「うちもいくでぇ」
 アルザは船のへりに片足をかけるとジャンプ一閃、飛びかかりながら剣をサ
ーペントの長い胴にたたき込む。
「どおやぁっ」
 深々と刺さった剣にぶら下がりながらアルザが叫ぶ。
「ギィィ!!」
「気をつけて!」
 カレンが呼びかけた瞬間、サーペントはうなり声をあげて長い胴体を振り回
し、水中に潜り始める。
「アルザぁぁっ」
 叫んだキャラットの方をちらりと見て船の位置を確認すると、アルザはサー
ペントの胴を蹴って船に向かって跳んだ。
「そりゃぁああ!」
 軽やかに甲板に着地したアルザは、揺れる船に少しよろめいたものの無事な
ようだ。
「あーあ、うちの剣、もっていかれてもうた……」
 アルザは、もったいないという顔でサーペントの潜む湖面を眺めた。
「どうだ?やったか?」
 カイルの問いかけに、アルザは首を振る。
「まだピンピンしとるんちゃうか」
「結構しぶといわねぇ」
 カレンがため息混じりにぼやく。
「今のうちに島まで行っちゃうってのは、ダメなの?」
「手負いがイチバン危ないんだ。ここで仕留めておく方がいい」
 キャラットの提案に、カイルが湖面をじっと見ながら答えた。
「ふーん、たまにはまともなこと言うんやなぁ」
「"たまに"ってのは余計だっ。俺の剣を貸してやるからちゃんと見張ってろ」
「ありがとさんっ」
「それは失くすんじゃねーぞ」
 静まり返った湖面に、じりじりとするような時間がまとわりつく。さっきの
アルザの一撃で息絶えたのではないかという安堵感がただよいはじめたその時
だった。
 大きく船が揺れたかと思うと、右舷前方に姿を現したサーペントがシュルシュ
ルと船体に巻きついてきたのだ。
「くそったれめぇ!」
「船ごと沈めようっての?」
 カイルとカレンが斬りかかる。まきついているせいで、サーペントの方も回
避行動がとれなくなっていて、頭としっぽ以外は無防備だ。
「え、えいっ」
 キャラットの剣が腹びれの一枚を切り落とす。
「ギィッ!」
 サーペントが長い尾をリラめがけて振り下ろす。リラはとっさに腕でかばっ
たが、サーペントの尾は鞭のようにしなりながら彼女を打った。
「きゃあっ」
 衝撃にぐらついたリラだったが、素早く体勢を整えるとぎゅっと剣を握りし
めた。
「ぶんなぐるわよ!」
 斬りかかりながらリラが叫ぶ。
 リラの振りかざした剣の切っ先が、ギラリと陽の光を反射する。
 鋭い風切り音とともに、リラのロングソードはサーペントの頭に深々と切れ
込んでいく。
「ギャァァァッ!」
 サーペントがひときわ高いうなりをあげた。そして、その一撃がとどめとな
り、ゆっくりと湖の中に崩れ落ちていった。
「へへ、ちょろいちょろい」
 リラは剣を鞘に戻すと、皆の方に向かって親指を立てて見せた。
「何言ってんの。右手、血が出てるわよ」
 見ると肘のあたりから、ぽたりぽたりと血がしたたり落ち、剣の握りのとこ
ろも真っ赤に染まっている。
「あはは、どーりで痛いわけだわ」
「ほら、こっち来なさい。ちゃんと手当てしとかないと、ね」
「はーい」
 カレンはもう戦闘モードからお姉さんモードに切り替わっている。リラの応
急手当てをすませると、一行は船を最後の島の岸に着けた。
 前に来たときと同じように、小さなほこらが彼女たちを待っていた。
 カレンがほこらの扉に手をかける。
「開けるわよ」
 かん高い軋み音をたてながら扉は開いた。
 前の冒険の時そのままに、そのほこらの奥に第二の魔宝、銀の糸はあった。
あいかわらず砂の中に埋もれていたのをリラが手際よく巻き取ると、まばゆい
ばかりの光が小さなほこらの中に満ちる。そして次の瞬間、銀色の細い光の筋
がまっすぐに湖の上をのびていく。
「次の魔宝は海賊王の島だったな」
「そう。方向も合ってるわ……よかった」


 ソーブルの湖を後にした一行は、ベンの街に入った。ベンは比較的大きな街
で、いきかう人も多い。
 街に入り、食べ物のにおいがするのか、アルザの「腹へった」攻撃がはじまっ
た。四人は苦笑していたが、カレンにしろリラにしろ、空腹なのは皆同じだった。
そこで一行は街で最初に見つけたレストランに入ることにした。
 入ったのはなかなか大きいレストランで、料理もさまざまなものがメニュー
に並んでいる。
「ボク、サラダ大盛りと、にんじんジュース!」
「あたしはミートパイにアイスティーね」
 めいめい、思い思いに注文を済ませていく。
「あ〜、迷うなぁ……せやなあ……」
 アルザはさんざん迷ったあげくに、メニューに載っている肉料理を片端から
注文し始めた。とめどなく続くアルザのオーダーに、ウェイトレスの女の子が
目を白黒させる。
「では、ご注文を確認します。サラダの大盛りがお一つ……」
 注文の復唱に、アルザが口を挟む。
「ええねん、ええねん。ちっとぐらい間違うとってもええから、はよ持ってき
てえな」
「え?あ、でも……」
「いいのよ、そうしてちょうだい」
 困った顔のウェイトレスに、カレンがにっこりと微笑みかける。
 ウェイトレスの少女はうなずくと、ぱたぱたと厨房の方に戻っていった。
 カウンター越しに延々と入るオーダーに、コックの一人がいったいどんな大
人数かとホールの方を覗き見る。アルザはそのコックをめざとく見つけて手を
振った。
「なあなあ、あんちゃん!見てへんで、はよ作ってぇな!!」
 あわてて厨房に引っ込んだのを見て、カレンたちだけでなく、フロアのウェ
イトレスたちからもクスクスと笑いが漏れる。
 やがてテーブルに料理が並び始めると、アルザは我慢できずにフォークとナ
イフを掴んだ。
「いっただっきま〜す」
 まだカレンとリラの料理が出されていなかったが、食べ始めたアルザに何を
言っても無駄なことは全員知っている。二人は苦笑いしながら肩をすくめるだ
けだった。


「パーティを分けましょう」
 料理があらかた片づいたのを見計らって、カレンはそう切り出した。
 全員の視線が彼女に集まる。
 今、彼女たちの手元にある魔宝は青の円水晶と銀の糸の二つだけ、まだ三つ
も残っているのだ。
 前の旅の時は魔宝の在処もわからずに順番にたどっていったが、今度はすべ
てわかっている。海賊王の島と黄金都市セアレスは、今いる場所からほぼ同じ
くらいの距離にあり、分担して取りに行くことができれば、かなりの時間の節
約になるはずだ。
 カレンは続けた。
「モンスターの強さとかトラップとか、そんなに変わらないみたいだし、これ
だったら二手に分かれてもイケると思うの」
 その提案に、全員うなずいた。
 半年のブランクがあるとはいえ、普通の狼やオーガー程度であれば、不意を
つかれようとも後れをとることはない。それに、全員ここまでの旅であの頃の
勘をかなり取り戻していた。
「俺は一人でも構わないがな」
 カイルがいつものごとく偉そうに言う。
「あんた一人じゃムリムリ」
「なにおう!」
 すかさず入ったリラのつっこみに、カイルがわめきちらす。
「カイルクン、うるさいわよ。お店の中なんだから静かにしなさい」
 カレンがさとす。
「お、おう……」
 むすっとした顔で黙り込んだカイルを横目にカレンが口を開く。
「問題はパーティをどう分けるか、よね」
 その言葉に、テーブルを囲んだ面々は顔を見合わせる。それぞれが、組み合
わせをいろいろと考えているような顔だ。ただひとりアルザだけが食べ足りな
さそうな顔でテーブルの上の空いた皿を見ている。
「あ、あの……ボク、カイルさんといっしょがいいな」
 ぽつりとキャラットが言う。
「ふん……勝手にしろ」
「じゃあ決まり。こっちはあたしたち三人ね」
「せやな。それでええんちゃう?」
「ま、順当なところかしら」
 カイルの言葉に、すかさずリラとアルザ、カレンが反応する。
「おい、ちょっと待て、なんで俺とこいつの二人きりなんだよ」
 二人の言葉に、カイルがあわててさえぎった。
「だってしょうがないじゃない、女の子二人で魔宝を手に入れろとでも?」
 カレンが腕組みしてカイルをにらむ。
「おまえら、十分強ええじゃねーか」
「ふーん、か弱い女の子に、そゆこと言うわけ?カイルクン」
 言いながらカレンは、カイルのとがった耳をぎゅっとつまみ上げる。
「痛えぇ!!」
 耳をさすりながらカイルがぶつぶつ言っている。
「だからってなぁ……」
 その様子に、キャラットが不安そうな表情になる。
「カイルさん、ボクといっしょじゃイヤなの?」
 消えそうな声に、カイルはあわてて答える。
「そ、そんなことはないぞ」
「わーい、よかった」
 照れ隠しか、ひとつ咳払いしてからカイルが口を開いた。
「海賊王の島とセアレス、それぞれ手に入れたら双面山に集合、だな」
「そーゆーこと」
 カレンはそう言うと、ちょっとのあいだ考え込むような表情をした。それか
ら人差し指をぴっと立てると、カイルの胸に突き立てた。
「キャラットちゃんのこと、泣かせちゃだめよ」
「何だよそれ!」
 耳まで真っ赤にしてあわてるカイルを、キャラットは笑いながら見ていた。
「うふふっ……でも……」
「ん?」
 一瞬の間。キャラットは長い耳をぺたんとおろして、ちょこんとうつむくと、
上目がちにじっとカイルを見つめながら、ささやくように言った。
「ボク、カイルさんだから……いっしょにいたいんだよ」
「だ、だに言ってんだぁ、おまえわぁ!」
「あはは、カイルさん、かーわいい」
 キャラットが弾けるように笑うと、カイルは赤い顔のまま、むすっとした表
情で横を向いた。
「ふ、ふん……」
「さ、出発しよっ」
 そういうと、キャラットはカイルの手を元気よく引っ張りながら通りに駆け
ていった。

        §    §    §

 街道を北へと進む馬車の隊列があった。マリエーナ王国へ向かうレミットた
ち一行である。
 レミットと先王、つまりレミットの祖父は馬車の一台でくつろいでいた。時
折窓から入ってくる風が、車中に秋の色をすこしだけ伝えている。きまぐれな
涼風に髪をゆらしながら、レミットはぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。
 先王は、そんなレミットを見ていたが、小さくため息をひとつつくと、難し
そうな顔で口を開いた。
「レミット、何をたくらんどる?」
「え、何?おじいさま」
 急に声をかけられてびっくりした顔のレミットが聞き返す。
「ずっと帰るのを嫌がっとったかと思えば、急にニコニコして国に帰ると言い
出しおって……何をたくらんどるんだと聞いておるんだ」
「べっつに。なんにもたくらんでなんかナイわよ」
 レミットはイタズラっぽい表情で答えた。
「まあよい。何を考えとるにせよ、この縁組みは是が非でもまとめねばならん
のだからな」
 先王はきっぱりと言い切った。
「ふーんだ、わたし、ぜーったいにおじいさまたちの思い通りになんかならな
いもん!」
 先王は、やれやれといった顔になる。
「ことはお前一人の問題ではないのだ。無論、わしとお前だけの問題でもない。
我が王家、我が国の民、カシナの民、みなの問題なのだ。それが分からんわけ
ではあるまい」
 レミットはうつむいた。仮にも王族の一人に生まれたのだから、そのあたり
を心得ていないわけはない。
「……分かってる、でも……でも!」
「でも、何だ?」
「わたしが結婚しなくっても、要するにカシナと戦争しなければいいんでしょ?」
「そう簡単にいけば苦労はない」
「そんなの、やってみなくちゃ分かんないでしょ、おじいさま」
 孫娘の気楽な言葉に、先王は大きくため息をついて見せた。
 レミットはそんな先王の心配をよそに、ニコニコと笑っている。
「それに……」
 レミットが言いかけて言葉を切る。頬が少し赤くなる。
「ん?」
「……それに、あっちの王子様にも好きな人がいるかも知れないし」
「お、おい、レミット。あっちの王子様に『も』って、お前……」
 孫娘の言葉に、先王があわてて聞き返す。
 レミットは知らんぷりで窓から顔を出すと、御者に声をかけた。
「止めて」
「どうしました、姫様?」
「止めて。止めてったら!」
 御者は手綱を引いて馬を止めた。
「何事ですか?」
「休憩よ!アイリス、ウェンディ。お茶を入れてちょうだい」
「はい、姫さま」
 おろおろとする先王は、ただ呆然とするだけだった。
 まだ子供だと思っていた孫娘レミットの恋の相手、それが誰かなどというこ
とに思い及びもしなかった。先王は、二年のあいだのレミットの成長にただた
だ圧倒されたのだった。

        §    §    §

「なあなあ、メシにせえへん?」
 街に入るなり、アルザが口を開く。
 アルザ、カレン、リラの三人は海賊王の島を目指して前の冒険よりも早いペ
ースで進んでいた。何しろ今度の旅では訓練はほとんど必要ないのだ。カレン
は、この調子ならあと二週間もしないうちに島にたどり着けるとみていた。
 街のにぎやかな通りを歩いていると、リラが不意に立ち止まった。
「あれ……?」
「どないしたん?」
「あそこ、ほら、あの角のところにいるの、楊雲じゃない?」
 そう言ってリラが指さした先、長くゆったりとした服に身を包んだ長い黒髪
の少女が歩いている。一種独特の空気をまとっているので、ちょっと勘のいい
者なら、ただの女の子ではないことに気がついたはずだ。
 なぜここに、と思いつつカレンが呼びかけようと手を挙げかけると、不意に
黒髪の少女がカレンたちの方に振り向いた。間違いなくその少女は楊雲だった。
 勘の良さは変わっていないらしい。カレンは挙げかけた右手をバツの悪そう
な顔をしながら下ろした。
「……」
 カレンたちに向かって何か言ったようだったが、雑踏のざわめきにかき消さ
れてしまう。
 影の民、楊雲はそう呼ばれる種族の一人だった。人の死期を恐ろしいくらい
鋭く感じ取るなど、不吉な事柄にかかわる超常的な能力をもっていることから
、影の民は多くの種族、特に普通の人間からは忌み嫌われていた。そのため、
影の民も常人とかかわりを持たないように暮らしている。楊雲自身はそうした
生き方とは違う生き方を学び、そして里に戻っていたはずだった。
 楊雲は、人混みをまるで気にしない風にすり抜けてくる。
「やはり……あなたたちでしたか」
 それは、まるでここに三人がやってくることが分かっていたかのような口ぶ
りだった。
「故郷に戻ってるって聞いてたんだけど。どうしたの、こんなところで」
 カレンの問いに、楊雲は静かに答えた。
「占いが私をここに導いたのです」
「占い?」
 思わずリラが問い返す。
「ええ。どうやら当たったようですね」
「ええから、メシや、メシ!」
「ハイハイわかったわよ。どう?楊雲も食べるでしょ?」
「なあ、はよ行こぉってば!」
 楊雲は、クスッと笑ってうなずいた。


 レストランを出て、四人は公園の片隅でひとやすみすることにした。
 三人のこれまでの旅の話、前の旅の想い出話、いろいろな話に花が咲く。し
かし、話が楊雲の旅に出た理由に至ると、三人はとまどいを隠せず、互いに顔
を見合わせた。
「未来がゆらいでいるのです」
「なによ、それ」
 リラがわけがわからないといった顔で聞き返す。
「私にもわかりません。ただ、何かが起きつつあるような気がするのです」
 そういうと、楊雲はすっと目を細めた。
「それでわざわざあんたが出てきたってわけね」
「ええ」
「どう、私たちといっしょに来ない?もしかすると旅のあいだに原因がわかる
かもしれないわよ」
「これからどちらへ?」
「まずは海賊王ブロスの島。それから双面山をまわってイルム・ザーン。で、
マリエーナ王国ってところね」
 カレンの言葉に、楊雲はこくりとうなずいた。
「わかりました。ご一緒しましょう」
「あんた、ずいぶんあっさり同意したわね」
「ええ。ちょうど調べに行こうと思っていた方角ですので」
「あ、そ」
 リラはちょっと肩すかしをくったような表情で短く答えると、ひょいと荷物
を背負った。
「さっきの未来の話、ね……」
 カレンが切り出す。
「何でしょう?」
「もしかして、リュウイチくんをこの世界に呼び出すことと何か関係があるん
じゃないかしら」
「そうかもしれません。あの人はこの世界の人間ではありませんからね」
 楊雲の答えに、カレンは微笑んで、安心しなさいとばかりに楊雲の背中をぽ
んとたたいた。
「ですが……」
 しばし言いよどんでいた楊雲だが、ついに次の言葉を口にしようとはしなかっ
た。
「何?気になるわねぇ」
「いえ、何でもありません……ほんとうに……」
 楊雲は口を閉ざすと、ずっと以前の、気むずかしそうな顔にもどる。そうし
て、リュウイチからもらったと言っていたネックレスをぎゅっと握りしめて西
の空を不安げに見つめ続けるのだった。

        §    §    §

「ほら、ウェンディ、遅れちゃダメよ!」
 快晴の空の下、レミットの元気な声がこだまする。
 いまだマリエーナ王国への道行きも半ばだが、レミットの思いつきで宿を抜
け出して遊びに行くことになったのだ。しぶるティナとウェンディは、アイリ
スが『少しでも時間を稼がないと』と納得させた。そうして若葉も含めた五人
は置き手紙を残して出てきたのである。
 久しぶりの自由な時間がよほどうれしいのだろう、レミットはずっとはしゃ
ぎ回っている。
「姫様!そんなに走らないでください」
 アイリスがいくら言っても聞くレミットではない。
 どんどん先にいってしまうレミットを追いかけて、四人はただ走った。
 そうこうするうちに、いつのまにかウェンディは一人ぼっちになっていた。
「あー、もう。レミットったらどこまで行ったのかしら……まったく」
 ウェンディはぶつぶつ言いながら、レミットたちの向かった方に街道を小走
りに駆けていた。
(ティナさんも若葉ちゃんもどんどん走って行っちゃって。ひどいです……)
 やがて、追いつくことはとっくに諦めたというふうにウェンディは立ち止ま
る。そして、メイド服のヘアバンドと胸のリボンをととのえて、ゆっくりとま
た歩き出す。
 木立の中からゆるやかに流れてくる風が、街道を行くウェンディの頬をなで
る。風に誘われるようにふっと空を見上げたウェンディは、ふと久しぶりの自
分だけの時間がそこにあることに気がついた。
 小鳥のさえずりがどこかから聞こえてくる。
 ウェンディ自身にとっても、こんな時間は久しぶりのことだった。
(レミットがはしゃぐ気持ち、わかんなくもないわね)
 まだ少しだけ強い日差しを避けるように、木立の陰の方に寄って街道を行く
と、みずみずしい緑の香りが満ちていた。
(そういえばリュウイチさん、今頃どうしてるんだろ)
 森の中に迷い込んだときにリュウイチが助けに来てくれた、そんな思い出を
木々の陰がふと鮮やかによみがえらせる。
(またみんなで旅ができたらいいのにな)
 そんなことを考えていたときだった。
 かすかな金属音がウェンディを現実に引き戻した。
 大工仕事や鍛冶屋の工房の音ではない鋭い金属音は、前の旅でいやになるほ
どその耳に刻み込まれた音、剣を合わせる音に間違いなかった。
 繰り返し聞こえてくる耳障りなほどの高い金属音に、ウェンディはふとレミ
ットたちの姿が重ね合わせて見えた気がした。
「まさか……」
 ウェンディは思わず駆け出した。斬り合いの音は街道から少し脇に入った林
の中から聞こえてくる。
 身震いをおさえて音のしている方に近づくと、それはダークブラウンの髪の
少年が、剣を持った三人の覆面の男に襲われているところだった。少年は見た
ところ十四、五歳といったところだが、ウェンディには少年自身に命を狙われ
る理由があるようには見えない。
(よかった、レミットたちじゃない……)
 一瞬ほっとしたが、そんな考えは瞬きする間に消え失せる。のんびりと観て
いる場合ではない、ウェンディがそう思った瞬間、覆面の男が少年の背後で剣
を振り上げた。
「後ろ!」
 反射的にウェンディはそう叫ぶと、そばに落ちていた小石を素早く拾い上げ、
覆面男の一人に向かって投げつけた。
 石はよけられてしまったが、少年は間一髪で剣をかわしたようだ。
「あんたたち!何やってるの!」
 覆面の男たちは少年を取り囲んだままウェンディの方に目線をやる。
「誰だか知らんが、邪魔をするなら死んでもらう」
 覆面の男の一人が低く太い声で言った。
「そうはいかないわよ。大の大人が寄ってたかって子供相手に!」
「子供って言うな!」
 少年はちらりとウェンディの方を見て叫ぶ。
「それどころじゃないでしょ」
 ウェンディが少年に駆け寄る。
「構うな、はやく逃げろ!」
 少年の言葉に、ウェンディの動きが止まる。瞬間、目の前の覆面の男たちに
向けていた注意がそれる。
 男の一人がウェンディに向かって剣をふりかざした。
「危ない!!」
 少年の叫び声。
 男の手の中で、堰月刀の鋭い刃が木漏れ日にギラリと輝く。
 そしてそれは風を切りながらウェンディの頭上に振り下ろされる。
「……!」
 ウェンディと少年の声にならない叫び。
 その瞬間、恐怖がウェンディのスイッチを入れた。
 かっと熱くなった血が全身を駆けめぐり、腕も脚も羽のように軽くなる。
 ウェンディは反射的に踏み込むと、斬りつけてきた男の右手の甲に手刀をた
たきこんだ。
「うぉっ」
 覆面の男は小さくうめき声を上げ、刀を落とす。
「小娘相手に!」
 リーダー格らしい男の叱責の声に、覆面男はキッとウェンディをにらみつけ
た。そして、落とした剣には目もくれず、見慣れない格闘の構えをとると素早
い蹴りと突きをウェンディに浴びせかけた。
「きゃあっ!」
 ウェンディはとっさに両腕でガードしたが、力では相手が上だった。そのま
ま後ろに飛ばされ、二、三度転げてようやく止まったウェンディ。顔を上げる
と、覆面の男は立ち上がってこいと言わんばかりに見下ろしている。
(女だからってバカにしないでよね)
 ウェンディはそのままの姿勢で左手で空中に印を切り、短く呪文を唱える。
「ヒート・シャワー!!」
 覆面の男たちの頭上に、真っ赤な炎の玉が雨のように降り注ぐ。魔法の攻撃
に慣れていないのか、男たちは炎に打たれてあわてふためいている。
「今よ!」
 その声に、ぼうぜんと炎の雨を見つめていた少年がはっと振り向いた。
 ウェンディは、覆面男からたたき落とした刀を拾いあげると、もと来た道を
街に向かって駆け出した。少年もそのあとに続く。
(人のいるところまで戻れば……)
 二人は人影のない街道をひすら走った。
 覆面の男たちは二人を追いかけてくる。走っても走っても距離は広がらない。
街もなかなか見えてこない。
 それに、さっき拾った剣が重い。
 ウェンディが手にしている堰月刀は、ちょうど海賊王ブロスが手にしていた
ようなゆるやかな曲線で構成された刀である。ブロードソードやロングソード
といった直刀とくらべれば絶対的な重量は軽いのだが、ウェンディの腕から肩
にかけて、その重みがずっしりとかかる。
 捨ててしまいたいという思いに駆られたが、今はこれだけが身を護ってくれ
るたった一つの武器だ。
 ひたすら逃げながら、一瞬、ウェンディの脳裏をいじめられっ子だった頃の
記憶がかすめる。
 ウェンディはくだらない記憶を振り払うように、ぶるっと頭を振る。
 走りつづけることに自分と少年の命がかかっているのだ。
(でも……)
 熱くなった喉を空気がぜえぜえと音を立てながら通る苦しさに耐えながらウェ
ンディは考えた。
(このまま走って、もし追いつかれたら……)
 少年がどんな理由があって追われているのかは分からなかったが、見捨てる
ことなどできなかった。それに、こうなってはウェンディ自身の命もあやうい。
走り疲れて動けなくなったときのことに考えがおよぶと、恐怖がくっきりとし
た形をあらわしはじめる。苦痛、そして死。
……その瞬間だった。
『君が必要なんだ』
 ふっと出会ったときのリュウイチの言葉が脳裏にうかぶ。いや、まさに今、
彼の声が聞こえたような感じ……
 今は目の前の少年に、自分の、ウェンディ=ミゼリアの力が必要なのだ、と。
 ウェンディは、走るのを止める。
「どう……したんだ?」
 少年が息を切らせながら聞く。
「わたし、絶対負けませんから」
 ウェンディは追っ手に向きなおり、刀を構える。そしてすうっと大きく息を
吸い、少しでも息を整えようとした。
「でも、あっちは三人なんだぞ」
「背中から斬られるより、ましです」
「……そうだな」
 少年は刀を抜くと、ウェンディを護るように左前のポジションをとる。
 立ち止まった二人の様子をいぶかしんでいるのか、三人の覆面の男たちがゆっ
くりと間合いを詰めてくる。
 それがウェンディには幸いだった。気づかれないように静かに息を整えると、
刀の柄をぐっと握りしめた。最後に剣を振るったのはイルム・ザーン最奥部、
守護者との決戦のこと。半年以上の街の暮らしの間、剣など握ってはいない。
どれほど腕をなまっているかを考えると手が震えそうになる。
 じりじりと間合いが詰まる。
 三人と二人、どう考えても不利だった。せめて一対一ならまだ勝機も見いだ
せるのだが、三人目の存在が戦局を圧倒的にしているのだ。
 少年の背中に不安の色が見える。
(あたりまえ、よね)
 ウェンディは左手を口元に寄せて何事かつぶやき始める。
 覆面の男たちは、堰月刀を片手で構えながらゆっくりと取り囲むように近づ
いてくる。
 どうやら正面と左の二人は、少年に狙いを絞っているようだ。そして、右の
男はウェンディに。
 正面の男が、頭上に掲げた堰月刀を振り下ろす。
 攻撃開始の合図!
 しかし、正面の男は次の一歩を踏み出すことはなかった。
「ライトニング・ジャベリン!」 
 ウェンディの詠唱が終わるのが一瞬早かった。バリバリという雷鳴にも似た
音とともに、強烈な光がまっすぐに正面の男に刺さり、そして一瞬で行動不能
にしたのだ。
 覆面の男たち、そして少年にも一瞬の動揺が走る。
 この世界では魔法はごく当たり前の存在だが、ある程度以上の高位魔法は決
してそうではない。それを年端もいかない少女が使いこなしているのだから、
彼らの動揺はもっともだった。
 しかし、ウェンディはそんなことを気にする様子もなく、素早く次のアクショ
ンに移る。
「左、お願い!」
 そう叫ぶと、ウェンディは右の覆面男との間を一気に詰めた。
 男の堰月刀が真横に払われる。ウェンディはすばやく一歩飛び退くと、だん
と踏み込んで袈裟懸けに振り下ろす。しかし、男がウェンディの切っ先をかわ
したため、ウェンディはあやうくバランスを崩しそうになる。
(この剣、使いにくい……)
 堰月刀は刃がゆるやかに曲がっていて、ブロードソードやロングソードといっ
たいわゆる直刀とは感触も間合いも全く異なる。手のなかの刀に慣れていな
いウェンディの、一瞬のとまどいを男は見逃さなかった。
 堰月刀を中段に構えたままぶつかってくる。
「きゃっ」
 その第一撃をかろうじてこらえたウェンディだったが、男の剣が絶え間なく
うち下ろされるのを受けるので精一杯となる。
「痛っ!」
 少しずつ腕や足に浅い切り傷が増えるが、反撃の糸口が見つけられないウェ
ンディは耐えるよりほかなかった。ただ受けているだけでも息が上がりはじめ
る。極度の集中に加え、二度の攻撃魔法の詠唱が彼女の体力を思った以上に消
耗させたのだ。
 時間にしてみれば十数秒といったところだろうが、ウェンディには数十分に
も数時間にも感じられる長さ……
「つ……っ」
 ウェンディががくりとひざを落とす。
「死ね!魔法使い!」
 覆面男が、勝ち誇ったように大きく剣を振り上げる。
 ウェンディはぎゅっとかたく目をつぶった。
 最期の一瞬がやけに長く感じられる。
 かん高い音を立てながら刀が風を切る。
 そしてドンという鈍い音……
「……?」
 起きるべき痛みも衝撃も感じなかった。
 ウェンディはおそるおそる目を開ける。しかし、そこに立っていたのは覆面
の男ではなかった。
「無事か?」
 少年がすっと手をさしのべる。
「ええ。ありがとう」
 ウェンディはその手をとって、なんとか立ち上がった。覆面の男たちが倒れ
ているのが目に入る。
「死んでるんですか?」
「さあね。でも、手加減する余裕はなかった。急いでここを離れるよ」
「は、はい」
 小走りで街道を町に向かってしばらく行くと、すぐにちらほらと人影が見え
てきた。追っ手も人目のあるところでは無茶はできないだろうが、まだ街まで
は少しある。
 二人は街道をはずれた林の中、茂みの影に身を潜めた。
 弾んでいる息が少しずつ落ち着いていく。
 ようやく自分たちのことを落ち着いて見ることができたのだろう、少年はウェ
ンディをいたわるように声をかけた。
「君、怪我をしてる……」
「こんなの、ぜんぜん平気。大丈夫です」
 そう言ってにっこりと微笑むと、ウェンディはキュアー・ライトを唱えた。
二人を柔らかな光がつつみ、傷が癒えていく。
「強いんだね」
「……」
 ウェンディは思わずキッとにらみつけた。
「あ、ご、ごめん」
 少年はばつの悪そうな顔でうつむいてしまう。
「その……あ、ありがとう……」
「どういたしまして」
 ウェンディはくすっと笑って答えた。
「ようやく笑ってくれたね」
 すっかり緊張も解けたらしい。そう言った少年の目にも笑みが浮かぶ。
 その笑顔が、不意にウェンディを現実に引き戻した。
 現実が彼女の中によみがえる。
 不意にウェンディの両の目から涙があふれだした。
「え?あ……やだ……」
 悲しくもないのに涙が止まらない。
 少年は、泣きじゃくるウェンディをそっと抱きしめた。
 ウェンディは少年の腕の中でびくりと躯をこわばらせる。
「あ、あの……離してください……」
 ウェンディが小声で抗う。
「だめだよ。君が泣きやむまで離さない」
「こ、困ります」
 しかし、言葉とは裏腹に、軽く、そっと腕を回されているだけなのに、ウェ
ンディは少年の腕を振り払うことも、身をよじって逃れることもできなかった。
 ウェンディは名も知らぬ少年の胸に身を預けながら、なぜだか気持ちが落ち
着いていくのを感じていた。
「僕のせいで泣かせてしまった……すまない」
 そう言って少年はまわした腕に少しだけ力を入れた。
 ウェンディは何も答えなかった。
 少年もそれきり何も言わない。
 静寂の中、ウェンディは少年の鼓動だけを聞いていた。
 少しずつ二人の鼓動が重なるような気がした瞬間、不意にウェンディは自分
の胸の鼓動が早鐘のごとく高鳴るのを感じた。顔が赤くなっていくのが自分で
も分かる。
「あ……もう、だいじょうぶです……」
 ウェンディはあわてて少年の腕をふりほどく。
 服装を整えて髪を直してもまだウェンディは顔の火照りを感じていた。
「ところで、君、何か用事の途中じゃないのかい?」
 少年のその言葉に、ウェンディはあわてて街道の方を振り返る。
「いっけない!レミット探してる途中だった」
「レミット?マリエーナのレミット姫?」
 いきなりの図星に、ウェンディは思わず身構えた。
「……どうしてそれを?」
「まあね。近くに来てるって聞いてたからさ」
 少年は鞘に収めた剣を確かめると、すっと立ち上がった。
「ずいぶん頼もしい侍女さんだね」
「別に……いいじゃないですか」
 むくれた口調でウェンディが答えると、少年はくすくす笑いながら言った。
「ほんと、うらやましいよ。レミット姫は、さ」
 きょとんとした顔のウェンディに、何でもないといった口調で少年は続けた。
「街まで送るよ」


 やがて見えてきた街は、ついさっきまでの体験がすべて白昼夢だったのでは
ないかと思われるほどに何事もなく平和な時間を刻んでいるようだった。
 街のそばまで来たとき、少年がすっと街の門の脇を指さした。
「あそこにいるの、レミット姫じゃないか?」
「え?……あ、ホントだ」
 見ると、向こうもちょうど今気づいたのか、手を振っている。
「ありがとう。そういえばあなたの……」
 そう言ってウェンディが振り向いたときには、そこにいたはずの少年の姿は
消えていた。
「名前……」
 鼓動が小さくトクンと鳴る。
「聞いてないのに……」

〜続く〜

その8の4へ


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