「杉本桜子 最初の事件」 第一話 --------------------------------------------------------------------- プロローグ: ------------  明かりの消えた体育館は不気味に静まり返っている。  ただひとつの影の他には誰もいない。  ほんの三十分ほど前までの運動部の喧噪が嘘のようである。 「卒業式まであと十日、か」  ぼそりとつぶやいた影の声が目の前の闇に吸い込まれていく。  幕の閉じられているステージを睨みながら唇をぎゅっと噛みしめた。  八十八学園第三十五期の卒業式は十日後の三月十七日だ。三年生はほとんどが 受験を終えて、残されたわずかな高校生活をあわただしく過ごしている。  ざわめき、解放感、それらすべての状況は自分にとって有利に働いているよう に思えた。  準備に残された時間はあと一週間。これだけあれば十分だ。計画は実現可能な ものだし、冷静な判断力もまだ残っているつもりだ。  焦りはない。不安もない。  目の前の暗闇から大きく息を吸い込む。その闇はすこしかび臭かったが、肺に 満ちた冷たい空気が心地よかった。  すっと目を細くして闇に視線を踊らせる。  この計画を思いついたのは一週間前のことだった。計画の実現可能性を確認す るのにこの一週間を要したが、自分が遂行する意志を持ち続けるならば十分可能 であると結論した。  計画を反芻する。  これから行おうとしていることを考えると、ずきりと背中に鈍痛が走る。その 痛みに、ふと昔聞いた、人の背中に翼があったというお伽話を思い出す。 (ならば……自分は失くした翼を取り戻そうとしているのだろうか)  そんな考えに、ぶるっと頭を振った。  夢想にふけるのは現実から逃げようとしている証拠だ。  知らず、手すりを握る手に力が入る。  鉄の冷たさが手のひらをしびれさせる。 (大丈夫、うまくいく、うまくいく・・・)  影は自分に言い聞かせるように小声でつぶやくと、くるりと踵を返して無人の 体育館をあとにした。 一九九五年三月十二日: ------------------------  日曜。朝、人気のない八十八学園の校内を歩く少女の姿があった。  彼女の名は加藤みのり。度の強そうな、いうところの牛乳瓶の底のような眼鏡 をかけ、加えて髪を固く編み込んで、まるでやじろべえのようにしている。  みのりは花瓶の水を換えるために三年B組の教室にやってきたのだ。  こうやって教室の花の世話をするのも今週で終わりなのだ、そう思うとみのり の胸に少し寂しさがこみ上げてくる。  みのりは入り口の前で立ち止まると、軽く息を吸い込んだ。  ぐるぐるとうず巻きの入った分厚い眼鏡を押さえ直すと、入り口の脇の窓から 教室の中をすっと見やった。  卒業を目前に控えて、クラスの皆は部活動を引退している。大学入試もほとん どが終わっているため、休日の教室には誰もいるはずもなかった。  みのりは級友と話すのがあまり好きではなかった。  自分のことを話すのがたまらなく苦痛だった。  普段から人とのつきあいを極力避けるようにしているのは、何気ない話から話 題の矛先が自分に向かってくることを恐れているためだ。  それが傷つけることも傷つけられることも拒んだみのりの生き方だった。  自分が傷つくことを恐れる人間にしばしば見られるように、みのりは他人を傷 つけることを極端に恐れていたのだ。他人を傷つけること、傷つけられた人間が 自分に向ける憎しみ、恨み、そんな感情を恐れていた。他人のむき出しの感情に 触れることが何よりも怖かったのかもしれない。  教室に誰もいないことにほっと小さくため息をつくと、みのりはいつものよう に後ろの入り口の戸を開けた。  花瓶には四、五日前から梅の枝が挿してある。梅の枝のふっくらとしたつぼみ が、窓際の暖かな日差しにほころびかけている。分厚い眼鏡の奥の瞳は、春の日 差しをいっぱいに浴びている梅のつぼみをじっと見つめていた。 「今、水を替えてあげるからね」  みのりは梅のつぼみにそっと話しかけるとその小さな花瓶を手にした。  手洗い場の水道の水はまだ冷たかったが、それでも春は間近らしく、切れるよ うな冷たさではない。  水を替えて教室に戻ろうとしたみのりの視界の片隅で、何かがみのりの目を捉 えた。吸い寄せられるように目をやると、それは廊下の連絡用のプリントを張る ための掲示板だった。  そこにはずいぶん前に終わった大学受験模試のポスターが貼られていた。左上 の画鋲がとれたのか、角がめくれて下がっている。それだけならばどうというこ とのない光景なのだが、何かが引っかかった。  ポスターの下に何かある――  近寄るにつれて、ポスターの下のそれがはっきりとした輪郭をあらわす。 「何よ、これ」  みのりは花瓶を持つ手を震わせながらつぶやいた。 「どうしてこんなものが、ここに」  ほとんどかすれるような声になっていた。みのりは手を伸ばし、ポスターのは がれかけている一角をつかむと一気にポスターを引き剥がした。勢いよく弾けた 画鋲が頬をかすめる。  現れたそれを目にしたとき、みのりは手にしていた花瓶が足下で砕け散るのも 気付かなかった。 同日夕刻 八十八市民病院 205号室: ----------------------------------  八十八市民病院の一室、消毒液の匂いがかすかに残る部屋に、ひとりの少女が いた。少女はベッドの上に身を起こして、じっと文庫本を読みふけっていた。彼 女のそれが単なる暇つぶしの読書ではないことは、積み上がった文庫本が何より 雄弁に物語っていた。まさに読書魔といっていいだろう。  彼女の名は杉本桜子。この病院に入院してから、かれこれ三年近くになる。 「杉本さーん、検温ですよー」  桜子は、ノックの音とともに部屋に入ってきた看護婦に目を向けた。体温計を 取り出す看護婦の姿をじっと見つめていたが、やがて桜子はぼそりとつぶやいた 。 「いいなぁ、デートかぁ……」  その瞬間、看護婦の手がびくっとしたかに見えた。 「あ、はは、は……だ、誰がデートなの?」 「宮田さん」  宮田とは、検温に来ていた看護婦のことだ。  桜子の言葉はまさに図星らしく、宮田は看護婦らしからぬ取り乱しようを見せ た。 「げっ……あ、あの、ね、ナイショにしててほしいんだけど……ね、お願い!」 「ええ。ただ、うらやましいなぁって思っただけですから」  桜子は体温計を受け取ると、ちょっと無気力そうな、つまらなそうな感じで答 えた。  宮田は検温のあいだ、落ち着かなげにしていた。 「あのさ、杉本さん、あたしの話、さ……誰かから、ね、その、えーっと、聞い たの?」 「いえ、誰からも聞いてないです。なんとなくそうなんじゃないかなって、思っ ただけですから」  宮田はぷうっとフクれてみせた。 「もぉ!カマかけないでよ。ヒヤッとしたじゃない」 「あはは、ごめんなさい」 「でもさ、デートはほんとなのよ。みんなにはナイショね」  宮田はそういうと、手に持ったバインダをひらひらさせて病室を出ていった。  桜子は病室の入り口をじっと見つめながら考えていた。ストッキングの色が違 う、髪の手入れが違う、白衣からちらっと見えたブラが違う、とどめは検温時間 がいつもより五分早い…… 「ふつー気づくわよねぇ……」  桜子は気を取り直して、読みかけていた本を開いたが、ほとんど読み進まない うちにパタンと閉じてしまった。  そしてそのままじっと天井を見上げて何やら考え込んでいた。  それからどれくらい経っただろうか、病室のドアをノックする音で桜子ははっ と我に返った。 「よおっ、桜子ちゃん、元気?」  入ってきたのは初柴りゅうのすけだった。 「元気なわけないって。だったらこんなとこに居ないわよ」 「ほれ、おみやげ」  そういうと、りゅうのすけは手に提げた肉まんの袋を桜子に手渡した。 「ありがと。太らないように祈っててね」 「おっけー」  りゅうのすけは桜子と同い年で、八十八学園に通っている男子生徒だ。伝え聞 くところによるとかなりの悪ガキらしいのだが、桜子にはその噂に対して疑問を 抱いていた。 「どしたの?なんだか楽しそうだね」 「ん?そ、そうかなぁ?わたしは」言いかけて一瞬口ごもったが、桜子はそのま ま続けた。「いつもどおりよ」  ベッド脇のパイプ椅子に腰掛けるりゅうのすけを見ながら、桜子は羽織ってい たカーディガンの襟に手をやった。 「りゅうのすけ君、もう卒業よね」 「まあね」 「いいなぁ、わたしはこれから入学なんだもんなぁ……先は長いわね」 「気にすんなよ、桜子ちゃん」 「もう、人ごとだと思って気楽なんだから。ねぇ、りゅうのすけ君。留年して私 と一緒に卒業式に出ない?」 「それ……シャレになってないから勘弁してくれ……」 「ぷっ……あはははは!」  頭を抱えているりゅうのすけを見ながら、桜子は声を出して笑い始めた。 一九九五年三月十三日: ------------------------  昼休みの職員室は、毎年のこの季節同様、すこし浮かれたような雰囲気に包ま れていた。受験もおおかた一段落し、三年B組担任の片桐美鈴もまたほっとしつ つ、書類整理がてら生徒一人一人の進路に思いを巡らせていた。 「あの、片桐先生、ちょっといいですか」  自分を呼ぶ声に片桐が振り向くと、そこには受け持ちの生徒の一人、加藤みの りが立っていた。 「何?加藤さん」 「ここじゃちょっと」  片桐は加藤みのりのその言葉に驚いた。そしてあらためて彼女をじっと見すえ た。  みのりは普段から引っ込み思案なところのある生徒ではあったが、職員室で話 したくないなどということはなかったと思う。  それに片桐には、みのりの妙に思い詰めたような表情も気にかかった。  片桐は書類整理の手を止めると、万年筆をトレーに戻して立ち上がった。 「生徒指導室でいいかしら」 「はい」  片桐はみのりとともに生徒指導室に入ると、入り口を閉めた。  ちょっとした書棚がある他はコの字型に組まれた長机にパイプ椅子だけの殺風 景な部屋だ。この部屋が使われるときは、たいていがろくでもないことが起きた か起きそうになっているかのいずれかだった。  部屋は冷えきっていた。  片桐は窓際のパイプ椅子に腰掛けると、みのりにも座るようにうながした。み のりは片桐の隣に座った。  みのりは長机の上で指を絡ませてはほどき、絡ませてはほどきしていた。その 落ち着かなげな動作が片桐の不安をいや増した。 「職員室じゃ話せないことって、何かしら」  みのりはブレザーのポケットから封筒を取り出すと、片桐の前に置いた。 「何かしら」 「中を、見てください」  消えるような声でみのりが言う。  片桐は目の前の封筒を手に取った。封筒から出てきたのは写真の束だった。  封筒の中身を見た片桐は驚きのあまり言葉を失った。  一番上の写真には、自分とおぼしき女のスカートの中が写っていたのだ。写真 の中のストッキングに包まれたインナーウェアには、片桐自身見覚えがあった。  頭に血が上るのを感じながら、片桐は写真の束をめくっていった。  自分らしき”被写体”の写真が何点かと、それ以外のほとんどは八十八学園の 制服を着た女生徒のものだった。  そのいずれもが、スカートの中なり更衣室かどこかの着替えの様子だった。そ してどれも巧妙に、顔や髪型といった特徴を避けて撮影されている。  片桐は、少なくとも生徒の目の前ではできるだけ平静を保たなければと努力し た。目を閉じて呼吸を整えると、みのりに聞きたいことを頭の中でまとめた。 「加藤さん、これ、どこで」  口を開いた片桐は、自分の声がまだ少し怒りに震えているのに気づいた。片桐 はその自分の震える声に、教師としての己の未熟さを恥じた。 「教室の前の廊下の、ポスターの下に貼られてたんです」  みのりのその答えに、片桐は驚きの表情を隠せなかった。  誰かから受け取ったなり、どこかで拾ったなりという答えを予想していたのだ が、廊下に貼られていたとは。  それではまるで晒し者ではないか。 「誰がやったか、心当たりあるかしら」  長い沈黙の後、ようやくみのりは口を開いた。 「長岡君だと、思います」  みのりの声はまた消え入りそうになっている。  片桐も同じ答えを思い浮かべていた。  長岡というのは、加藤みのりと同じく片桐のクラスの男子生徒で、フルネーム は長岡芳樹という。写真部のただ一人の部員である。  彼がこの種の写真ばかりを撮影していることは半ば周知のことだったが、これ まで撮影されたその手の写真が見つかることはほとんどなかった。それについて 苦々しく思っていたのは片桐だけではなかった。 「そうね。決めてかかるのはよくないけど、たぶんそうね」  みのりは片桐の言葉に、ただ無言でうなずいただけだった。 「彼にも困ったものね。もう卒業だっていうのに」  片桐があきれた風につぶやいた。 「写真は先生が預かります。それから、このことは内緒にしておいてもらえるか しら」 「は、はい」  片桐はみのりの返事に軽い不服の色を感じとった。見つけた写真の中には自分 が被写体となっているものもあったのだろう、と片桐は推測した。 「心配しなくても大丈夫。彼にはちゃんと言っておきますから」 「はい」 「写真、これで全部だったの」 「はい、一応気になって学校中のポスターの裏を調べてみましたけど、それだけ しか……あ、保健室の中とかは入れなかったのでわからないです」 「そう」  片桐はどうしたものかと考えながら写真を封筒に戻した。いずれにせよ、これ らの写真のネガを没収するなりして処分しておく必要はあるだろう、そう思った 。顔のない彼女らのために、みのりのために、そして自分自身のために。 〜第二話へ続く〜