「あなたへ 〜 two hearts」 ----------------------------------------------------------------------  明かりが消えた部屋に、スプリングの軋む音が響く。 「ふぅ・・・あぁ」  背中にまわした桜子の細い指先がりゅうのすけの肌にくい込む。 「・・・りゅうのすけく・・んっ!」  洩れてくるかすかな明かりに照らされて、りゅうのすけのシルエットがぼん やりと浮かぶ。暗闇に慣れた桜子の目に、一心不乱に桜子を求めるりゅうのす けの顔が映る。  桜子は少し唇をとがらせて、りゅうのすけの唇を誘った。  りゅうのすけはその唇で桜子の小さな唇をふさぐと、すぐに桜子の舌を求め て入ってきた。桜子の開いたままの唇は侵入してくる舌の感触にうち震える。  桜子は自分の中にりゅうのすけを感じながら、ねっとりと舌を搦めていく。  技巧も忘れ、ただむさぼるように動くりゅうのすけの舌に、桜子は柔らかく 舌を搦めながら少しずつ高まっていく火照りを感じていた。 「むぅ、あ・・・ん」  二人の熱い吐息が絡み合いながら辺りに満ちる。  舌を搦めたまま、りゅのうすけが桜子の上で激しく動く。 「ん・・・あふぅ・・・」  突き上げられるたびに桜子は重ねた唇から声を洩らす。  声とも吐息ともつかない桜子の声がさらにりゅうのすけを刺激するのか、そ のたびに背中に回されたりゅうのすけの腕に力が入るのがわかる。  抱きしめられるたび、突き上げられるたびに頭の中が白くなっていく。背中 から首筋にかけて痺れるような感触が広がる。腰も腕も足も、もはや自分の意 思とは関わりなくりゅうのすけを求めて動きつづける。 「う・・・んん!」  桜子はこらえきれずに唇を引き離すと、ひときわ大きく声をあげた。  りゅうのすけは宴の終わりを予感させるようにひとしきり激しく動くと、桜 子の上で身体をブルッと震わせ、桜子の上に力なくその体を投げ出した。  力の抜けたりゅうのすけの体の重み、そしてじっとりと汗に濡れた肌の感触 が心地よかった。  部屋はその薄暗さに似つかわしい静けさを取り戻し、ただ桜子とりゅうのす けの荒い息遣いだけが低く響いていた。  桜子は心地よい虚脱感に身をまかせながら、ふと初めてのときのことを思い 出していた・・・  それは六年ぶりに再会した夏の終わりのことだった。  乗り気でないりゅうのすけを無理に誘い出したのは桜子だった。  『いつか振り返らせてみせる』そう言ったものの、桜子はりゅうのすけと久美子の仲を見せつけられるたびに、それが無理なことのように思えてならなか った。だが、それでも胸のなかにくすぶりつづけていた想いは消えてはくれな かった。  映画を見て、食事・・・ありきたりといえば、あまりにありきたりなデート の後、夜の公園を散歩しながら、桜子はありったけの勇気をふりしぼって言っ た。 『りゅうのすけ君・・・わたしを抱いて』 『だめだよ』 『・・・今夜だけでいいの・・・それで・・・あきらめるから』  本当にただ一度のつもりだった。一晩だけ抱かれてそれで諦めよう、そう決 めていた・・・  きっと、それは同情に近い愛情だったのだろう・・・りゅうすけはその夜、 桜子の望みを優しくかなえてくれた。  しかし決心とは裏腹に、桜子の中のくすぶりは消えるどころか炎となって燃 え上がり、手に負えないものになっていった。桜子自身、そうなることはわか っていたことだった・・・  桜子はりゅうのすけのかすかな寝息にふと我に返ると、ベッドサイドの明か りを点けた。りゅうのすけが眩しそうに顔を動かす。 「後悔、してる?」  桜子はりゅうのすけの首に腕をまわすと、覗き込むようにして聞いた。 「ん・・・?」  りゅうのすけは、けだるそうな目で桜子を見つめた。 「後悔って?」 「ううん、やっぱり・・・なんでもない」 「・・・久美子のことか?」 「うん、そっ・・・かな」  桜子は言葉を濁すと、りゅうのすけの胸に顔をうずめた。りゅうのすけは桜 子の問いには答えずに聞き返した。 「じゃあ、どうして俺と?」 「どうしてかしら・・・あなたのことが好きだから・・・かな?」  りゅうのすけの指が桜子の乱れた髪をそっと梳いている。  ひとときの逢瀬の終わり・・・このまま時間が止まればいいのに、桜子はそ う思わずにはいられなかった。     §  §  § 「もう・・・お見合いなんかしないわよ!」  久美子の大きな声が、アパートの六畳間に響く。実家の母親からの電話はい つもと同じ用件だった。 『いつまでもお母さんだって元気とは限らないんですよ』 「そりゃ・・・そうだけど」 『お見合いはともかくたまにはこっちに帰ってきなさい。もうじきお正月なん ですからね』 「もうじきって、まだ十月よ。それに、美容院ってお正月はかき入れ時だもん 。帰れないわよ」 『お正月でなくても、ちょっとでいいから一度帰ってきなさい。お父さんの十 三回忌にも帰ってこなかったでしょ』 「はーい」  久美子は電話を切ると深く溜め息をついた。こんなことになるのなら電話番 号を知らせるんじゃなかった・・・そう思ったものの、さすがにたった二人き りの親娘でいつまでも音信不通というのは気がとがめたのも事実だ。  りゅうのすけが永島旅館の婿養子にでもならない限り、見合いしろと言われ 続けるに違いない。でもそんなことはありえないことだった。りゅうのすけと 久美子はいつの日にか一緒に店を出そう、そして結婚しようと誓い合っている のだから。 (いくらお母さんでも、こっちが結婚しちゃえば見合いしろなんて言わないわ よね・・・)  そんなことをつらつらと考えていると、ふたたび電話のベルが鳴った。 (またお母さんかな?) 「もしもし」 『永島・・・久美子さん?』 「そうですけど、どちら様?」 『私、杉本・・・杉本桜子です』  久美子はどういうわけか桜子の声に胸騒ぎを覚えた。しかし桜子はそれきり 黙り込んだ。久美子も桜子の意図を図りかねて言葉が出てこない。  互いに無言のまま時が過ぎる。  先に沈黙に耐えられなくなったのは久美子だった。 「何の用?」  受話器の向こうから聞こえてきたのは、思いもよらぬ言葉だった。 『彼と・・・別れてほしいの』  久美子は桜子の言葉に耳を疑った。瞬間、初めて桜子を見たあの日のあの光 景が脳裏に浮かぶ。あの時のりゅうのすけの桜子への眼差しが久美子の胸をし めつける。  ようやく絞り出すようにして問い返す。 「どういうこと?」 『言ったとおりよ』  言いおえた桜子は、そのまま電話を切った。  受話器を握りしめたまま久美子は桜子の言ったことの意味を考えた。  だがどう考えてもその答えはひとつしか思いつかなかった。 (そんな・・・りゅうのすけ君が・・・)  信じられなかった。りゅうのすけを信じたかった。  だが、久美子はただ茫然とするよりほかなかった。     §  §  §  りゅうのすけはリビングでいつものように遅い夕食を終え、リビングで独り ぼんやりとテレビを眺めていた。ブラウン管の中では売り出し中のアイドルグ ループがはしゃぎまわっている。 「ねぇ、お兄ちゃん・・・」  パジャマ姿の唯が隣に座った。風呂あがりなのか、シャンプーの匂いがりゅ うのすけの鼻をくすぐる。 「ん?」  りゅうのすけはテレビの方に目をやったまま返事をした。 「お兄ちゃんってさ、桜子ちゃんとつきあってるの?」  唯の唐突な問い掛けに、一瞬言葉につまる。 「・・・なんで?」 「だって桜子ちゃん、急に綺麗になったし・・・それに、最近よくうちに来て るじゃない。唯に会いに来てるんじゃないことくらい、唯にだって分かるよ」  唯の口調には、りゅうのすけのことを責める風はなかった。ただ、りゅうの すけにはその責めない口調が一番こたえた。いっそ責めてくれた方がまだ気が 晴れるのに、そう思うと唯の優しさが少しだけ恨めしい。 「桜子ちゃんね、お兄ちゃんの話するとき、すっごく楽しそうな顔するんだよ 」 「ああ・・・」 「私、久美子ちゃんも桜子ちゃんも好きなんだよ。ふたりがお兄ちゃんのこと 好きな気持ち、唯、すっごくわかるんだ。だって、唯も・・・」  本当のところ、りゅうのすけ自身、どうしたらいいのか分からなかった。桜 子との関係をこのままにしていいわけはない。だがりゅうのすけは自分の気持 ちの真ん中に久美子がいるのを確信していた。  それが桜子への後ろめたさでもあり、またその後ろめたい関係を隠したまま 愛しつづけいる久美子への後ろめたさでもあった。 「・・・」 「久美子ちゃんのことは・・・?」  どうしたらいいのか、それが分かればとっくになんとかしている・・・ 「唯には・・・関係ない」 「そ、だね。ごめん・・・お兄ちゃん」  声を荒らげたつもりはなかったが、唯はすまなそうにしていた。りゅうのす けは優柔不断な自分自身への苛立ちを唯にぶつけてしまったことに少し後悔し た。謝らなければいけないのは唯ではなく自分なのだ。 「唯が謝ることは、ない」  りゅうのすけは、ぼそっと言った。 「俺、もう・・・寝るわ。おやすみ、唯」 「おやすみ、お兄ちゃん・・・」  階段を上がりながら、りゅうのすけは考えつづけた。ベッドにもぐり込んで からも考えていた。だがいくら考えても答えは出なかった。     §  §  §  久美子とりゅうのすけが店の後片付けを終えたのは、いつもよりちょっと早 い午後九時過ぎだった。 「お先に失礼しまーす」 「俺も上がりまーす!」 「はーい、お疲れさーん」  久美子はりゅうのすけと一緒にあがると、着替えを済ませて店を出た。 先に着替えを済ませて出ているりゅうのすけが、いつものように店の前で待っ ている。久美子はりゅうのすけの隣に歩みよると、りゅうのすけの腕にすっと 腕を絡ませた。 「寄ってくでしょ?」 「ああ。今日は早くあがれたしな」  久美子のアパートは八十八学園にほど近い住宅街の中にある。二人の働く駅 前の美容院からだと遠回りになるが、りゅうのすけはいつも久美子をアパート まで送っていた。  久美子の部屋は2階の一番奥の部屋にあった。  鍵を開けると、りゅうのすけが久美子に代わってドアを開ける。 「ありがと」  玄関に入り、靴を脱ごうとかがんだ久美子は、不意に後ろから抱き寄せられ た。りゅうのすけは荒っぽく唇を重ねると、そのままドアに久美子を押しつけ る。久美子のやわらかな乳房がりゅうのすけの手の中で形を変える。 「だめよ、こんなとこで・・・」 「かまうもんか」 「もう・・・」  二人とも立ったまま唇を重ね、互いの背中に手をまわした・・・  ひとしきり玄関先で愛し合うと、ベッドの上でふたたび二人は愛し合った。  久美子がシャワーを浴びてバスタオル一枚で部屋に戻ると、りゅうのすけは 上半身裸のままベッドの上に横になっている。 「ねえ」  久美子はベッドに腰掛けて、ちょっと甘えた声を出す。 「明日のお休み、どっか遊びにいかない?」 「わりぃ、ちょっと約束があってさ」  久美子はそう言った瞬間のりゅうのすけの表情に、かすかな隠し事の匂いを 感じた。不吉な匂いだった。 「桜子ちゃんがさ、唯の誕生日プレゼント選ぶのに付き合ってくれって」  りゅうのすけの口からその名が出るのは初めてではない。だが、今日はその 名を聞きたくなかった。ゆうべの電話のことをいやでも思い出させるのだ。  そして、ついさっきまで愛されていたときのことを考えてしまう。その指が 、その唇があの女も愛したのかと思うと耐えられなかった。  嫉妬、不信・・・それを悟られまいと久美子は出来るだけ普通のふりをした 。今ここでりゅうのすけを失いたくはなかった。 「そ、そっか。もうじき唯ちゃん、誕生日だっけ」  久美子はゆうべからずっと桜子からの電話のことばかり考えていた。  そして、そのことをりゅうのすけに問いただしたかった。  だが、ひとたび問えば、答えを求めずにはいられないだろう。  そしてその答えを聞いてしまうと、それがどんな答えであれ全てを失ってし まうような気がしてならなかった。 「ごめんな。次の休みにはさ、どっか・・・ちょっと遠出するか」 「うん・・・そうね」 「とうした?元気ないな」 「ううん、何でもない・・・だってりゅうのすけ君、激しいんだもん」  久美子がおどけた風にそういうと、りゅうのすけは笑って久美子を抱き寄せ 、頬にキスした。 (大丈夫よね。りゅうのすけ君、まだ私のりゅうのすけ君だよね)  久美子はそう思おうとした。りゅうのすけが微笑みかけてくれたことで、そ う信じられそうだった。 「そいじゃ、俺、ぼちぼち帰るわ」 「うん」  いつものようにりゅうのすけが服を着て帰り支度をする。久美子には、その 背中がなぜかとても遠く感じられた。いつものこと、いつもの繰り返し・・・ 躰を合わせた後の寂しさが今日はやけにつらい。背を向けたまま、りゅうのす けが遠くに行ってしまうような気がしてならなかった。 「じゃあな、おやすみ、久美子」 「おやすみ」  りゅうのすけが玄関のドアの向こうに消える。  ドアの閉まる音が久美子の中に繰り返し響いた。  不意に全身が不快感に包まれる。たまらず久美子はバスルームに駆け込んだ 。  信じている、信じたかった・・・だがそれでもりゅうのすけの触れたその体 が今は堪らなく不快だった。  久美子はシャワーを全開にすると、なにか汚らわしいものが触れたかのよう に躰中をスポンジでこすりつづけた。乳房も、足も、腕も、秘部も・・・りゅ うのすけの指が触れ、唇がなぞり、つらぬいた全てを洗い流したかった。  狭いバスルームに湯気がたちこめる。  湯の張られていないバスタブの中に崩れるように座り込むと声を上げて泣い た。シャワーの音にかき消され、涙がシャワーに洗われるまま久美子は泣きつ づけた。     §  §  §  平日の昼下がりということもあって、如月町に向かう電車に客の姿はまばら だった。久美子はりゅうのすけと休みが合わない時は如月町でウィンドーショ ッピングするのが常だった。今も冬物のコートを見にいくところだった。  座って雑誌をぼんやりと眺めていた久美子の前に、ふと誰かが立ち止まった 。 「こんにちは、久美子さん」  不意に声をかけられ、驚いて顔を上げるとそこには桜子が立っていた。 「あっ・・・あなた・・・」  長い栗色の髪をゆったりと後ろで束ねた桜子は、ロングスカートに白いセー ターを着ていた。スリムジーンズにジャケット、軽くパーマのかかった肩まで の髪という久美子とはずいぶん対照的だった。   桜子が久美子をジロジロと見ながら口を開いた。 「ふーん、今日はりゅうのすけ君と一緒じゃないのね」 「別にあなたには関係ないでしょ」  久美子は声と表情にありありと浮かぶ不機嫌さを隠そうともしない。 「そうかしら?」  桜子は意味ありげに笑みを浮かべた。 「どういうつもり?」 「何が?」  桜子の態度、声、すべてが久美子の癇に障る。あの夜の突然の宣戦布告の電 話以来、積もりに積もった怒りがこみ上げてくる。久美子は大声で叫びそうに なるのをかろうじて踏みとどまると、立ち上がって桜子をじっと睨み付けた。 「ひとの男に手を出すんじゃないわよ」  久美子の言葉を受け流すと、桜子は勝ち誇るように言った。 「りゅうのすけ君、私のことが好きなんだって」  刹那、久美子の中でなにかが弾けた。久美子の右の手のひらが桜子の頬を打 つ。車内の喧噪を切り裂いて乾いた音が響きわたる。まわりのざわめきが聞こ えた気がしたが、今の久美子には目の前の女以外の何も見えなかった。 桜子も打たれた頬を押さえながら久美子をにらみ返していた。泣きもせず、 叩き返そうともせず、非難するでもなく、ただ桜子は久美子をじっとにらみ返 していた。  電車の単調な走行音がやけに大きく感じられる。  二人は身じろぎひとつせず、にらみ合う。  普段ならあっという間に着くはずの如月町の駅が今の久美子には遠く感じら れた。早く電車が駅に着けばいいのに、久美子はひたすらそう願った。とにか くこの状況から一刻も早く逃げだしたかった。  しかし久美子の思いをよそに、いっこうに如月町に着く気配はない。ふと、 目の前の桜子の自信はどこからくるのだろうかという疑問が久美子の脳裏をよ ぎる。答えはすぐに思い当たった・・・それは久美子にとって最悪の答えだっ た。  ようやく電車は如月町の駅に到着した。周囲の空気が再び動き始める。  自動ドアの開く音に、ようやく呪文から解かれたかのように視線をはずすと 、久美子は邪魔よとばかりに桜子を右手で突いて、そのまま電車を降りた。  如月の町の雑踏の中、久美子は、日の暮れるまでさまよい歩いていた。無関 心な街、無関心な人の群の中を久美子はさまよい続けた。日が暮れる頃、久美 子はひとつの決心をした。     §  §  §  久美子が急に美容院を辞めたことをりゅうのすけが知ったのは、久美子が店 に出てこなくなってからのことだった。  店長は、りゅうのすけには内緒にするよう久美子から頼まれたのだという。 何を聞いても、ただ久美子は謝るばかりだったらしい。  昼休み、りゅうのすけは半信半疑のまま久美子のアパートに行った。自分に 内緒で店を辞めてしまうとは信じられなかった。しかし久美子の部屋はすでに 引き払われた後だった。ドアノブには電力会社の案内の袋がぶらさげられてお り、六年間の久美子の生活はすでにここから消え失せてしまったことを示して いた。  りゅうのすけは店に戻るとすぐにローテーションを変えてもらうと、翌日店 を休むことにし、店を早退した。  実家に帰るよりほか、あてがあるとは思えなかった。  今から出れば日の沈む前に冬至温泉に行ける、りゅうのすけは駅前のバスタ ーミナルに急いだ。  六年ぶりに訪れた冬至温泉郷は秋の紅葉シーズンということもあって、なか なかの賑わいのようだった。ぞろぞろと歩く観光客をかき分けながらりゅうの すけは永島旅館へと急いだ。  五分も走っただろうか、昔と変わらぬ永島旅館にたどり着いたりゅうのすけ は、フロントに駆け込むと、息を切らせながら言った。 「あの、久美子・・・永島久美子さん、お願いしたいんですが」 「しょ、少々お待ちください」  フロント係の女性は一瞬びっくりしたような顔をしたが、すぐに営業スマイ ルに戻ると、奥の事務室に入っていった。 「あの、お嬢様にお客様なんですが・・・」  フロント係に呼ばれて現れたのは久美子の母、佐知子だった。佐知子はこの 永島旅館の女将で、十五、六年前に旦那に死なれてからずっと一人でこの旅館 を切り盛りしてきたのだ。 「あらまあ、りゅうのすけさん。ご無沙汰してます」 「あ、佐知子さん。あの、久美子・・・さんは?」 「よくぞ聞いてくださいました」 「は?」  佐知子が嬉しそうな笑みを浮かべながらりゅうのすけに告げたのは、予想も しない言葉だった。 「あの子、ようやくお見合いしてこの旅館を継ぐって言ってくれたんですのよ 」 「な・・・」 「わたし、このまま私が死んで誰もこの家を継がない、なんてことになったら 天国で主人に合わす顔がありませんもの。うれしくて、うれしくて。ね?りゅ うのすけさんも喜んでくださいますよね」  佐知子のとぼけた反応がりゅうのすけを逆なでする。悪意はないのだろうが 、娘が六年も付き合っていた男を前に、見合いを喜べも何もないものだ。 「それで久美子さんは?」 「そうそう、そうでしたわね。今呼んで来ますから、ロビーで待っててくださ いな」 「はあ」  りゅうのすけは佐知子の言っていた見合いがどうこうという話が気になって 仕方がなかった。そんなはずはない、りゅうのすけはそう思ったが、アパート を引き払ってまでここに戻った久美子の行動が、りゅうのすけのもとを離れよ うとしたものなら・・・合点がいく。  りゅうのすけがロビーで落ち着かなげに座っていると、ほどなくジーンズに 綿シャツ姿の久美子が現れた。 「来たのね」  感情のない声に、目の前にいるのが本当に久美子なのかと戸惑う。 「久美子・・・」 「私ね、賭をしてたの。あなたが今日中にここに来てくれたら、あなたのこと を信じられるかもしれないって」  久美子の表情は硬く、りゅうのすけは、出会ってから今まで見たこともない 久美子がそこにいるような気がした。 「なあ、久美子。さっき佐知子さんから聞いたんだけど、見合いって何のこと だ?」 「ちょっと前のことなんだけどね、彼女から電話があったの」 「彼女って?」  りゅうのすけは、少し声が荒っぽくなっているのが自分でもわかった。久美 子は自分の問いに答えようとしていない。それがりゅうのすけには腹立たしか った。 「桜子・・・さん」  りゅうのすけは、ここでその名を久美子の口から聞くことになろうとは思っ ていなかった。久美子に桜子との関係が知られているのだろうか? 「何て?」 「別れてって・・・」  りゅうのすけは返す言葉を失った。 「最初に見たときからずっと変だと思ってたのよ・・・六年ぶりなんて嘘なん でしょ」  久美子が声を荒げる。 「ちょ、誤解だよ。俺と桜子ちゃんはそんなんじゃないってば」 「じゃあ、あの娘のことなんかどうでもいいって言って。わたしのことだけ愛 してるって言って」 「久美子・・・」 「ちゃんと言って。じゃないと、あたし、あなたのことが信じられない・・・ 」  久美子はそこまで言うと、ふっつりと黙り込み、目を伏せた。 「じゃあ、なんで見合いなんかするんだよ。そんなに俺って信用ないか?どう せ信じてないなら信じられないなんていうなよな」  りゅうのすけは久美子の左腕をつかむと、ぐっと引いた。久美子はそのりゅ うのすけの手を振りほどくと、りゅうのすけをにらみつけた。 「触らないで!」  久美子が鋭い声で言った。 「久美子・・・」 「あの娘に触った手で私に触らないで!」  久美子を失ったのは自分のせいなのだ、その思いがりゅうのすけを責める。 「帰って・・・もう・・・来ないで・・・」 「わかった。もう来ないよ、久美子」  久美子は何も言わずにロビーを立ち去った。久美子の後ろ姿に、りゅうのす けは胸が締め付けられるような思いがした。  信じてもらえなかったことの痛みと久美子を失った痛みがりゅうのすけの心 を切り刻む。りゅうのすけの中に、情けなさ、悲しさ、悔しさが渦を巻く。  ロビーに残されたりゅうのすけは泣いていた。涙が止まらなかった。だがそ こにりゅうのすけの涙をぬぐってくれるはずの久美子はいなかった。りゅうの すけは一人泣いた。     §  §  §  昼下がり、桜子はりゅうのすけの家のインターホンのボタンを押した。  桜子は深夜勤務のあと、入れ替わりで昼番に入った鳴沢唯に、昨夜からりゅ うのすけの様子がおかしいという話を聞いたのだった。桜子は仕事を終えて病 院を出ると、その足でりゅうのすけの家に向かった。 『開いてるから・・・』  りゅうのすけの力ない声がインターホンから流れる。  桜子が玄関のドアを開けると、そこにはりゅうのすけが立っていた。よれた シャツに、赤い目・・・一目でゆうべ一晩中泣き明かしたとわかる。 「りゅうのすけ君・・・何かあったの?」 「・・・上がれよ」 「うん」  桜子はりゅうのすけの後について、二階のりゅうのすけの部屋に入った。カ ーテンは閉められたままで、よどんだ空気が桜子の気分も滅入らせる。りゅう のすけは部屋に入るとそのままベッドの端に座った。 「どうしたの?・・・窓、開けるわよ」 「ああ」  カーテンと窓を開け、空気を入れ換えてようやく、桜子はりゅうのすけをじ っと見る余裕ができた。 「何かあったの?」  りゅうのすけは黙ったまま答えようとしない。まるで桜子がそこにいないか のようにじっと虚空を見つめていた。 「わかったわ。もう・・・聞かない」  桜子はりゅうのすけの隣に座ると、そっとりゅうのすけの腕に手のひらを重 ねた。  二人はずいぶん長い間、黙ったまま座り続けていた。時折外から鳥の鳴き声 が聞こえる他には物音ひとつしなかった。  どれだけの時間が過ぎただろうか、桜子はりゅうのすけのすすり泣く声に気 が付いた。 「りゅうのすけ君・・・」  不意にりゅうのすけは桜子を抱き寄せた。 「ごめん・・・ちょっと・・・こうしててくれる?」 「うん」  桜子は察した。りゅうのすけが久美子を失ったのだ、と。 「りゅうのすけ君、わたし、ずっとあなたのそばにいる。そばにいるからね」 〜FIN〜