「パジャマパーティーの夜」 ---------------------------------------------------------------------- 「・・・それからというもの、月の青く光る夜にその川に近づく者はぱったり といなくなってしまったの・・・そしてその川というのは・・・」  いずみが声をひそめる。唯と友美がごくりと息をのむ。 「如月川なのよぉ!」 「きゃああああ」  いずみの突然の大声に唯の悲鳴が重なる。いずみと友美は唯のかわいい悲鳴 を聞いて笑い転げていた。 「唯、そんなに怖かったか?」  いずみが笑いをこらえながら聞いた。 「いずみちゃん、急に大声出すんだもん・・・唯びっくりしちゃったよ」 「ふーん、そう言いながらけっこうビビってたんじゃないのか?」 「ふーんだ、そんなことないもん。こわくなんかないもん」  三人は顔を見合わせると、また笑いだした。  そう、今夜は高校時代の女友達3人が集まって水野家でパジャマパーティ。 友美の両親が旅行に出ているおかげで夜遅くまで平気でワイワイ遊べるという ことで、夏休みの一夜を友美の家で楽しんでいるのだ。皆、八十八町を離れて の進学になってしまったので卒業以来の再会だった。話したいことは3人とも 山のようにあった。  夕食は3人で作ったそうめんとサラダ、それに美佐子が差し入れてくれたカ レイの煮付けと酢の物という献立だった。そして食後におやつを食べながらリ ビングで話しているうちに、いずみが「夏といえば・・・」と言いだし、怪談 しようということになったのだ。 「友美の番だぞ」 「えっと・・ねえ、借りてきたビデオ・・・見ない?」  友美が話題をそらそうとしているのは見え見えだった。もちろん唯もいずみ も容赦しない。 「だーめ、すぐそうやってごまかそうとする」 「唯もいずみちゃんもこわい話、したもん。次は友美ちゃんだよ」 「これがいいって借りたの、唯ちゃんじゃない」 「いいの、ビデオは後で見ればいいよ。それより友美ちゃんの番だよ」  二人は友美の話を心底たのしみにしているように友美をじっと見つめていた。 しばらくして友美はあきらめて話すしかないことを悟ったようだった。 「うん、じゃあ・・・この話はあんまりしたくないんだけど・・・」  その友美のもったいつけた口ぶりに乗せられて、唯といずみはじっと友美の 話に耳を傾けた。 「まだ東京が東京市と呼ばれていた頃の話よ。山深い里に若い夫婦がいたの・ ・・」  友美はゆっくりと話しはじめた。 「ある年のこと男は、やせて実りをもたらさなくなってきた畑にタバコを植え ようと言いました。そしてその種を手に入れるために東京に行くと言い出した の。妻は男に着物やかんざしなど、金に換えられそうなものを渡して送りだし ました。男は一か月待っても帰ってきませんでした。春が過ぎ、夏を迎え、ひ と月が一年となっても男は帰ってきませんでした」 「女は男の帰りを待ちながら一人で田畑を守りつづけました。夏の日照りの中 も、冬の吹雪の中も、そのわずかの田畑を一人で守りつづけたのです」 「狭い田舎のことです、その女のことを知らない者などいませんでした。やが て男が帰る気配のないことを知って言い寄る者もいましたが、女はただ拒みつ づけました。村には口さがない者もいましたが、女はただひたすらに男の帰り を待ち続けました」 「女はずっと男の帰りを待ち続けていましたが、女が数えで四十になった年の 冬に、ふとした風邪がもとで女は重い病を患ったのです。女は最期の薄れゆく 意識の中、男の事を考えつづけました。そして、かすれる声で男の名を呼び続 けました。しかしいくら呼べども無駄でした。  まさに死が女の心の臓のかすかな炎を消し去らんとした瞬間、この二十年の間、男のことを恨むまいとし続けた想いが突然、自分を忘れてしまった男への 憎悪に変わっていたのです。  女が最期に男の名を呼んだその声は、死を目前にした女の声とは思えなかっ たといいます。月のない夜、山を七つ越えて響いたその声を聞いた者は皆、そ のことを語らねばならない場合でも、辺りを見回し、そして誰もいないことを 確かめてなお、聞こえるか聞こえないかの微かな声でしか語ろうとはしません。 それほど忌まわしいものだったのです。実際、この世のどんな生き物も、生き ながらにして・・・そのようなおぞましい声を上げることができはしないでしょ う」 「ちょうどその夜から、東京に出た男の身の回りに不思議な出来事が起こりは じめたのです。はじめは些細なことでした。雨漏りもないのに朝起きると靴の なかが水浸しになっていたり、背広の襟に覚えのない長い女の髪が付いている といった具合でした。男は不気味に思いましたが、幾日かするとそんなことが あったことすら忘れてしまいました。やがて、男の身の回りの不可思議な現象 はその激しさを増していきました。風もないのに窓ががたがたと揺れたり、突 然何の前触れもなく箪笥の上のものが落ちてきたりするのです。一度など、重 い木箱があやうく男の頭をかすめて落ちていったこともあります。最初は偶然 だと思っていた男も、繰り返し起きる不可思議な現象を気味悪く思いはじめた のです。  そしてついにその見えざる手は男を捕らえはじめたのです。男は微熱を患っ たかと思うと、見る間に体をこわしてしまい、そのまま病の床に就くことにな ったのです。  男が月の見えない夜に床に伏せていると、誰もいないはずのその足元に人の 気配を感じることが何度もありました。そのたびに辺りを見回すのですが、そ こには誰もいないのです。日に日にその気配は強まりました。そして気配を感 じるたびに自らの残りの命が削られていくように思いました。  やがて、ふた月も伏せた頃には、男は自らの死期が近づいてきていることを 感じるようになりました」 「ある日、男がいつものように人の気配を感じて、もはやほとんど力の残って いないその体を起こすと、なんとそこには故郷に残してきた妻がいたのです。 いえ、正確に言えば妻の姿をした影のようなものを見たのです。男はその影を、 死の前に人が見るという過去の思い出かとも思ったのですが、それも女が口を 開くまでのことにすぎませんでした。 『おひさしゅうございます』  男は心底驚きました。 『おお・・・どうしたのだ?その姿・・・もしや・・・』  女は男の言葉に動かされる風もなく冷たい目をしていました。 『最初から私を捨てるおつもりだったのでしょう?』  女はその体から流れ出る冷気を強めながら男に言いました。 『何のことだ?』  男は急に寒気をおぼえて布団をたぐりよせましたが、温もりを得ることはで きませんでした。その寒気は男の内側からのものだったのです。 『二十年がどれだけ長い時間だったか・・・あなたにはお分かりにならないで しょうね』  それを聞いた男は強まる冷気のことも忘れてしまいました。男は、生身を持 たぬ妻に向かって静かに言いました。 『私が村を出、ここに居を構えて以来、何度もお前にこちらに来るよう便りを 出したのだ。嘘ではない・・・』  男の目には一点の曇りもありません。女はその時、ふと思い当たったのです。 自分にしつこく言い寄ってきた郵便配達の男を。きっとあの男が便りを抜き取っ ては捨てていたに違いありません。 『おオオオーーー』  女の声にならぬ叫びがあたりに響きわたりました。女は自らがおこなったこ とを恥じました。しかし生身ならぬ身ゆえ死んでわびることすら叶いません。 『何があったのかは問わぬ・・・もう・・・いいのだ・・・』  男がかすかな声で言いました。 『聞いてはくれぬか・・・私はお前に便りを書くたび、返事を待ちわびた。し かし、お前からの返事は来る気配もない。そのたびお前の身を案じ、そしてお 前がもしや誰ぞ新しい亭主を迎えたのではないかと不安な日々を過ごしていた のだ。しかし・・・お前がずっと私の女房であってくれたことを知って満足だ。 すでにお前はこの世にはいないのであろう?なればこの世に何の未練があろう か・・・』 『もっとそばに来ておくれ・・・』  男は女の見つめる前で静かに息を引き取りました。そして男の魂は女の手を すり抜けると天に召されていったのでした。そして女はいずこともなく去りま した」 「・・・今も女の住んでいた山では吹雪の夜になると山々をわたる風の音にま じってその悲しげなすすり泣きが聞こえるんですって・・・」  友美はそこまで話すとぱたっと黙り込んだ。 「ん・・・」 「なんか・・・怖いっていうより・・・悲しいお話だね・・・」  唯もいずみもすっかり黙り込んでしまった。3人はしばらくの間、黙って下 を向いていた。ふと唯が友美にたずねた。 「ところで友美ちゃん、どうしてこの話、したくなかったの?」 「・・・聞きたい?」 「うん」 「・・・ほんとうに?」 「う、うん」  長い沈黙のあと、ようやく友美は重苦しげな表情で口を開いた。 「これってうちの曾祖父の話なの・・・だから・・・」  友美はふたたび黙り込んでしまった。 「え?と、友美・・・ほ、ほんとの話だったのか?」 「ちょっとぉ・・・やめてよぉ友美ちゃぁぁん」  唯が涙声になる。いずみも半べそ状態である。まさに唯が声をあげて泣きだ そうとしたその時、友美が再び口を開いた。 「なーんてね、ここまでが怪談だったの・・・ごめんね」  友美は一転して明るい声で言うと、ぺろりと舌を出した。  いずみも唯もあっけにとられていたが、やがて涙声のまま笑いはじめた。友 美もつられて笑った。 「ひっどーい」 「あら、聞きたいって言ったの、唯ちゃんよ」 「そうだけどー」 「でも唯、あれは反則だよなぁ」 「そうそう」 「そんなことないと思うわよ」  楽しげな声はその夜は遅くまでリビングに絶えることがなかった・・・     §  §  § 「ねえ・・・まだ・・・起きてる?」  明かりの消えた友美の部屋に、友美の小さな声がした。 「うん」  返事をしたのは唯だった。唯といずみは友美の部屋に客用のふとんを持ち込 んで寝ることにしていたのだ。 「・・・しょうがないなぁ、友美も唯も」 「そういういずみちゃんも起きてるじゃない」 「へへっバレたか」  何のことはない、3人ともずっと誰かが口を開くのを待っていたのだ。 「でも・・・ほんとに友美に部屋から、りゅうのすけの部屋ってよく見えるん だな」 「そ、そうかしら・・・?お、お隣だから仕方ないじゃない?」 「何どもってんだよ、友美・・・」 「でも・・・いいなあ、唯、友美ちゃんがうらやましいよ」 「唯がうらやましがってどうするんだよ?この中じゃ私が一番不利なんだぞ」  いずみにしてみれば、お隣さんを同居人がうらやましがっているのだから、 たまらない。しかし唯の声も明るくはなかった。 「もうあんまり関係ないよ。だって・・・りゅうのすけ君はずっと遠いところ にいるんだもん」 「そうだな・・・」 「唯ちゃん、りゅうのすけ君から何か連絡あった?」 「ううん、何にもないよ」 「そう・・・」 「・・・今頃あいつ何やってんだろう?」 「何やってるのかしらね・・・」 「・・・」  不意に友美がベッドから起き出した。そして友美はりゅうのすけの部屋の見 える窓の前に立った。カーテンを開け、サッシを開けた。窓の外から月明かり が射し込み、サッシはカラカラと軽やかな音をたてた。外の蒸し暑い夜の空気 が部屋に流れ込む。 「どうしたの?友美ちゃん・・・」 「友美?」  友美はちょっとの間じっとりゅうのすけの部屋の窓を見つめていた。唯もい ずみも友美の突然の行動をただ見つめるしかなかった。やがて友美は深く息を 吸い込むと、暗くカーテンの閉ざされたりゅうのすけの部屋の窓に向かって叫 んだ。 「りゅうのすけのバカー!さっさと帰ってきなさーい!」  いずみも唯もあっけにとられてしまった。夜中に大声で叫ぶなど普段の友美 からは想像もつかなかったからだ。友美は月明かりを背にして、あっけにとら れている二人に微笑みかけながら言った。 「ふぅ、すっきりした」  友美の明るい声に、唯もいずみも起き出して窓辺に立った。もちろん・・・ 叫ぶためだ。二人は息を合わせると、いっしょに叫んだ。 「りゅうのすけー!むこうでナンパばっかりしてないで帰ってこーい!」 「お兄ちゃーん、唯、ずっと待ってるよー!」  三人は顔を見合わせると、誰からともなく笑いはじめた。月が静かに窓から 部屋を照らす中、三人の笑い声は八十八の夜空にいつまでもいつまでもこだま していた・・・ 〜FIN〜