「十六夜の月の下で」 ---------------------------------------------------------------------- 10月6日・・・今日は私にとって、とっても特別な日になった。 私の名前は篠原いずみ。でも今は名字はあんまり関係ないと思ってる。籍こそ 入れてないけど、あの人・・・龍之介と一緒に住むようになってもう3年近く になる。ま、世間じゃこういうの駆け落ちっていうのかな?ずっと住んでいた 八十八町を離れても、他にだれも頼る人がいなくても、あの人と一緒だってだ けで私は平気だった。 でもそろそろ一緒に住むだけじゃなくて・・・籍も・・・入れたいなって思う んだ・・・特に、今日はそう思ってる。だって・・・     *    *    * 銭湯から出たのは私の方がちょっと早かったみたい。いつものように銭湯の前 の自動販売機でトマトジュースを2本買った。もちろん1本は私ので、もう一 本は龍之介のだ。よく冷えた2本の缶を洗面器に入れて龍之介を待った。 龍之介を待っている間・・・私は、あの話をどう切り出そうか、そればっかり 考えていた。 「待たせたな」 ずっと下を向いて考えてたから、風呂から上がって出てきた龍之介に声をかけ られた時はちょっとびっくりした。 龍之介は私の洗面器からトマトジュースを取ると、パキッとあけて飲み干した。 私が缶を開けようとすると、龍之介が洗面器を持ってくれた。缶を開け、私も トマトジュースを飲み干した。ふと見上げた空に丸い月が見えた。 「あ、あのね・・・」 「何だ?いずみ」 「・・・な、なんでもない」 やっぱり言えないよぉ・・・。何も言わない私を見て、龍之介はちょっと首を すくめた。 「さてと、帰るか」 「う、うん」 結局あの話を切り出せないまま、私と龍之介はアパートに向かった。途中花屋 に寄って、頼んでおいた花束を受け取った。真っ白なユリにブルーのかすみ草 をあしらった花束。龍之介はちょっと変な顔をしたけど、別に何も聞かなかっ た。 アパートに戻ると、いつものようにタオルを干した。2つの洗面器もいつもの ように洗濯機の上に重ねて置いた。 いつものように、台所でちょっとしたお茶菓子を出してお茶の用意をする。夜 のお茶の時間が一日の中で一番好き。静かに龍之介と二人でいると、それだけ でほっとする。でも今日は・・・とても大事な話があるんだ・・・。 「いずみー」 ふと見ると、ちゃぶ台の向こう側に座っている龍之介が手招きをしている。 「何?」 私はお茶の用意の手を止めて、龍之介のそばに行った。 龍之介は、立っている私の手首を握るとぐいっと引き寄せた。 「もお・・・龍之介ったら」 そういいながら、私は手を引かれるままに、ぺたんと座り込むと、そっと目を 閉じた。龍之介の手のひらが私の頬をそっとなぜる。この大きな手のひら、そ してその暖かさが好き。くちびるが重なる。龍之介の舌がするりと差し込まれ る。私のくちびるは龍之介の舌を受け入れる。 「ん・・・」 龍之介の腕が私の背中にまわされた。私はそのまま龍之介に身を預けた。 龍之介の匂いが好き。汗の匂いとか、そういうんじゃなくて・・・うまく言え ないけど、こうして龍之介に抱きしめられているとほっとする。 くちびるを重ねたまま龍之介が私の胸を服の上からまさぐる。頭がぼーっとし てきちゃう。でも・・・ 「りゅうのすけぇ・・・今日はだめだよぉ」 しかし龍之介は手を止めない・・・まったく・・・ 「いずみ、あの日じゃないんだろ?」 「ばかぁ」 「だいたい、そんな色っぽい声で言われるとますます止まらないよ」 「もぉ・・・ほんとにダメなんだってばぁ」 そうやって話している間に龍之介の手は胸から脇腹へとすべる。 私はようやくの思いで身体を起こして言った。 「ねえ、ちょっと表を散歩しない?」 「あ、ああ」 龍之介は不完全燃焼な表情に怪訝そうな色を浮かべていたが、私がすたすたと 玄関に向かうのを見てようやく腰を上げた。私は花束を持って玄関を出た。 龍之介と散歩するのってずいぶん久しぶりのような気がする。月明かりの下、 私は花束を抱いたまま龍之介の腕にそっと腕を絡めると、頭を龍之介の肩に寄 せた。 「なあ?花束持ってどこ行くんだ?」 「ん・・・もう少しだよ」 私は龍之介を導いて、近所を流れる川の土手を越えると川べりに下りた。 私はこの期に及んでもまだ、どう切り出したものかと考えていた。すぱっと言っ てしまえばいいのに・・・ね。月が川面にゆらゆらと揺れるのをじっと見つめ ていた。 「なんか・・・あったのか?」 龍之介が心配そうに聞く。私はゆっくりと大きな深呼吸をしてから向き直ると、 花束を龍之介に手渡した。龍之介のちょっとびっくりした表情は月明かりでも よく見える。 「な、なあ?何かの記念日だっけ?」 龍之介が聞いた。私はそれには答えずに言った。 「・・・もうじき・・・パパになるのよ、龍之介」 「そ・・・それって?もしかして」 「うん・・・」 やっと言えた・・・けど・・・龍之介はなんて言うだろう?もしかして堕ろせ とか言われたらどうしよう・・・龍之介、早く何とか言ってよぉ。私はおそる おそる龍之介の顔を見あげた。 とたんに龍之介が大声を上げたので私はびっくりした。 「ひゃっほー!」 龍之介は飛び上がって喜んでいる。私はそんな龍之介を見て、不意に涙が出て きた。 「でかした!・・・俺といずみの・・・」 龍之介がこんなに喜んでくれるなんて・・・ちょっと驚いた・・・。 私の手をぎゅっと握りしめて龍之介が言った。 「さっきは・・・それでか?」 私は小さくうなづいた。 「なあ、いずみ、どうして内緒にしてたんだよ?」 「別に内緒にしてたわけじゃ・・・しばらくアレがなくって、で、今日、仕事 が休みだったから病院に行って来たんだ。そしたら・・・」 「そっか」 「それにもし・・・産むなって言われたらって考えると、なんか恐くって」 「バカだな、いずみ・・・どうして俺が産むなっていうんだよ?」 「私たち、まだ籍も入れてないしさ・・・それに私たち子供なんて産める状況 じゃないだろ?」 龍之介が弾けるように笑った。 「ばーか、俺がもっと働けばそれでいいんだろ?まずは貯金しなきゃな。そう だな・・・籍は・・・明日にでも入れるか?立会人はどうする?」 もう、せっかちだな。あいかわらずなんだから・・・ 「でもなんか信じられないな、まだ・・・俺といずみの赤ちゃんか・・・」 私だって・・・私の中に、龍之介の子供が・・・私と龍之介の子供がいるなん て・・・まだ少し信じられないよ・・・ 今日、医者に診てもらって、2ヶ月半だって言われるまでずっと信じられなかっ たんだ。そりゃ、男と女がひとつ屋根の下に暮らしてるんだから、心当たりが ないとはいわないけどさ。 「なぁ、男の子かな?女の子かな?名前どうする?なぁ?」 「気が早いな、龍之介は」 「だってよ、俺、すっげー感動してるんだ。俺といずみの子供が・・・」 「私もだよ・・・」 龍之介はふっと真顔に戻って私をじっと見つめた。 「でも・・・」 龍之介は花束をぎゅっと握りしめて言った。 「でも子供ができたら、俺たちもいつまでもこうして音信不通でいるわけにも いかないかもな」 「え?」 「だからさ・・・ちゃんとオヤジさんに挨拶しにいかないといけないなってこ と。子供まで作って、今更どの面下げてって感じだけど・・・もう俺たち二人 の問題じゃないんだからさ」 「・・・」 「子供はちゃんと祝福されて欲しいんだ、だから・・・」 龍之介の真剣な顔を見ていると、私は胸がいっぱいになった。 「うん・・・そうだね・・・」 龍之介は無言で私ににっこりと微笑みかける。私は我知らず龍之介の胸に飛び 込んでいた。 「龍之介、ありがとう・・・ありがとう・・・」 龍之介は私の肩をそっと抱きしめてくれた。 「いずみ・・・八十八に帰ろう」 「うん」 〜FIN〜