「春の片隅で」 ----------------------------------------------------------------------  春、4月。桜は八分咲きで、その美しい瞬間をあわただしく駆け抜けていく 姿はどこか物悲しくもあり、潔くもある。無情な時は花を散らす。しかし春は また巡り来る。まるでそのことを知っているかのように桜は花びらを惜しげも なく風に舞わせる。     §  §  §  友美がいずみの家で行われる野点に招かれるのはこれで3度目だった。八十 八学園を卒業して3週間あまりが過ぎたが、大学の手続やら何やらで外に出る ことも多く、いずみとも卒業式以来の再会だった。 「水野様、ようこそいらっしゃいました」 「本日はお招きにあずかりまして」 「さ、どうぞ」  初老の執事にみちびかれて庭に入った友美は庭の桜に目を奪われた。風に揺 れる数えきれないほどの桜の花は、春のやわらかな日差しを浴びて、えも言わ れぬ美しさで見る者を魅了していた。 「ようきたな、友美ちゃん。待ちかねておったぞ」  いずみの祖父だ。普段から和服を身に着けているそうで、確かによく似合っ ている。小柄な体に白髪、白髭、優しげな目。目の前のこの温和そうな老人が 一代で篠原重工を興したとは、にわかには信じられない。 「おじいさま,お久しぶりです」 「ほっほっ随分と娘げになったのぉ。振り袖もよう似合うておるわい」 「ありがとうございます」 「そろそろ、なんじゃ、いい男のひとりもおるようじゃの」 「そんな・・・私なんか・・・」  そう答えながら友美はりゅうのすけを思い浮かべていた。単なる幼なじみの 男の子・・・そう思えなくなったのはいつのことだろう。ずっと以前から友美 には分かっていた。きっかけは唯だった。唯があらわれて以来、友美はりゅう の すけの事を異性として強く意識しはじめていた。りゅうのすけの家に知らない 女の子が住む、それが当時ずいぶんショックだったことを友美は覚えている。  正直なところ、今もそれは友美を悩ませることがある。時折りゅうのすけが 唯のことで見せる激しい怒り、それを見るたびに友美は胸が締めつけられるの だ。 「図星のようじゃの」  友美はいずみの祖父が闊達に笑う声にふと我にかえった。見る間に顔が赤く 火照っていくのが分かる。 「・・・」 「友美、久しぶりだね」  不意にいずみの声がした。振り向くと和服姿のいずみがにこにこしながら友 美の方を見ていた。 「こんにちは、いずみちゃん」 「こりゃ、いずみ。振り袖を着ておる時ぐらいは言葉遣いに気を付けろと言う とるじゃろう」 「あ・・・ごめんなさい、おじいさま」 「ほれ、友美ちゃんを案内せんか」  友美はいずみの後について歩いた。 「おじいさま、何か変なこと友美に言った?」 「どうして?」 「いや、ちょっと顔が赤かったから」 「ううん、何でもないんだけど」  庭の一角に野点を行うための敷物が敷かれていた。  もちろんここからも桜がよく見える。 「いずみちゃん、桜、きれいね」 「うん・・・こうしてゆっくり桜なんか見るのなんて・・・」  まだいずみの両親は庭に出ておらず、少し離れたところで桜を見上げている いずみの祖父の他はいずみと友美の二人きりだった。  いずみが茶籠から道具を取り出す。よく手入れされたそれらの道具は、篠原 の茶の湯が単なる金持ちのお遊びでないことを何より物語っている。いずみの 自然な作法、振る舞いは長年の間に身についたのだろう。  茶釜の蓋がリズミカルに音を立てながら湯気を上げている。  いずみがあざやかな手つきで茶を点てる。  静かに置かれた茶碗を受け取って友美はふと思った。いずみはりゅうのすけ の事をどう思っているのだろうか。最後の冬休みの後、りゅうのすけは人が変 わったかのように勉強を始めた。また女の子に声をかけるようなこともなくな った。友美はそれとなく理由を聞いたことがあったが、教えてはもらえなかっ た。  茶を飲みおえ、飲み口をそっと袱紗でぬぐうと友美がおもむろに聞いた。 「ねぇ、いずみちゃん、卒業してからりゅうのすけ君に会った?」 「ううん、会ってないけど・・・そういう友美は?」 「会ってない・・・」  嘘ではなかった。卒業して数週間、まったく顔を見ていないのだ。友美が窓 越しにりゅうのすけの部屋を見てもいつもカーテンが閉められたままだった。 小さいころからりゅうのすけの部屋のカーテンが閉じられているのを見た覚え がない友美は不安でしかたなかった。単にカーテンが閉まってるだけなのに・ ・・こんなに不安になっている自分が信じられないと思う。しかし不安を感じ ている自分もまた確かにいるのだと思う。友美は高校を卒業して初めて自分の 気持ちに素直になれそうに思えている。りゅうのすけ君が好き。やっとそう認 めることができたのに、りゅうのすけはいない。顔を合わせなくなってはじめ て自分の中のりゅうのすけの存在の大きさを感じていた。 「そうなんだ・・・」  いずみはそれ以上何も言わなかった。友美も何も言わなかった。たまにそよ ぐ風が鳴らす葉音以外には音もなく、春のひとときは静かに過ぎていった。 「何してんだろ・・・」 「何してるのかしらね・・・」  何気なく見上げた桜はもの言うこともなく花びらを風に舞わせている。  茶菓子をつまんでいるところに執事が邸内から下りてきて、いずみに声をか けた。 「お嬢様、初柴様からお電話が入っておりますが、いかがいたしましょう?」 「りゅうのすけから?出るわ」  いずみは執事からコードレスホンの子機を受け取った。 「もしもし・・・うん、友美もいるけど・・・今どこ?・・・うん・・・うん ・・・分かった」  いずみは電話を切るとそのまま内線で車を用意するように指示した。 「友美、いっしょに成田に行くよ」 「どうしたの?」  友美の問いにいずみが消え入るような声で答えた。 「りゅうのすけが・・・行っちゃう・・・」     §  §  §  高速道路を駆け抜ける1台の黒いクラウン。成田に向かう友美といずみの姿 がその中にあった。 「とばしますよ、お嬢様」 「無理しないで。止められたら元も子もないんだから」 「お任せください」  運転手はこの道をよく知っているのだろう、絶妙に速度を変えながら一度も 速度違反で止められることなくほとんどの区間を時速160Kmほどで走りきった おかげで、思ったよりずいぶん早く空港に着くことができた。  でも一分一秒が惜しかった。もし本当にりゅうのすけが外国にいってしまう のなら、時間はほとんど残っていないのだから。  車のなかでいずみに聞いた話では、りゅうのすけはいずみに成田から発つと いうことしか言わなかったという。  友美といずみは車を下りると、りゅうのすけが待つと言ったレストランに入 った。店内を見回すと・・・りゅうのすけがいた。まるでちょっと用を足しに きたかのような普段着だったが、その目は遠くを見つめる目をしている、友美 はそう感じた。もう何を言ってもりゅうのすけは聞かないかもしれない・・・ 。 「やあ」 「やあじゃないわよ」  いずみがりゅうのすけに詰め寄る。 「どうしたんだ?二人とも和服なんか着て」 「私たちのことなんかどうでもいいの」  友美がぴしゃりと言う。 「友美・・・」  りゅうのすけは二人の剣幕に少し驚いているようだった。 「ちょっと落ちつけよ、二人とも。まだ出発には時間があるから・・・コーヒ ーでいいか?」 「コーヒーなんかどうでもいい!」  いずみがテーブルを叩く。近くにいた客の視線が集まる。いずみは意に介す ことなくじっとりゅうのすけを睨みつけている。 「いずみちゃん・・・座りましょう、ね」 「友美はどうしてそんなに落ちついてるんだよ・・・りゅうのすけがいなくな っちゃうってのに」  振り返ったいずみは今にも泣きだしそうな顔をしている。 「落ちついてなんかないわ・・・」 「だって・・・」  言葉とは裏腹に、友美は自分でも不思議なくらい落ちついている自分に驚い た。りゅうのすけの目を───遠くにある何かを見つめ、それを求めている目 を、誰にも止められないその目を───見てしまったからなのか。 「決めたのね・・・」 「ああ、決めた」 「そう・・・じゃ、何を言っても無駄なのね」  いずみが友美を睨む。 「友美・・・勝手に納得するなよ!」  友美は無理に感情をおさえつけようとしているのが自分でもわかっていた。 「じゃ、どう言えばいいの?」  それが友美の言える精一杯だった。 「友美はりゅうのすけがいなくなっていいの?会えなくなっても・・・こんな の・・・こんなのって・・・」  いずみの言葉、もう会えない・・・友美は必死にこらえた。ここでりゅうの すけを引き止めることはできない、引き止めてもそれは誰のためにもならない 、そう思った。 「許してくれ」  黙り込んだいずみと友美にりゅうのすけが言う。 「・・・許してくれなんて言わないで。りゅうのすけ君が決めたんでしょ・・ ・なら誰にも許しなんか乞わないで」 「友美・・・」 「私、好きだったんだから・・・りゅうのすけ君のこと大好きだったんだから ・・・何をしたいのか知らないけど・・・途中で投げたりしたら承知しないか らね」 「分かった。約束するよ・・・」  いずみが何も言わずにりゅうのすけの胸にとびこんだ。声を上げて泣くいず みはりゅうのすけの胸をたたき続ける。りゅうのすけの掌がいずみの小さな肩 を抱いた。 「りゅうのすけのバカ・・・ちゃんと帰ってこいよ」 「ああ。いつになるかは分からないけど・・・帰ってくるよ」     §  §  §  いずみと友美はじっと空を見ていた。爆音が夜の闇に消えていく。 「行っちゃったよ・・・」 「そうね」 「ほんとによかったの?」 「しかたないじゃない」 「帰ってこないかもしれないのに・・・」 「しかたないわ」  いずみはそれ以上何も言わなかった。友美はりゅうのすけの消えた空に最後 にそっと呟いた。 「好きよ・・・さよなら・・・」 〜FIN〜