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Heart in motion1学園祭まであと二週間という、ある朝のことだった。 蔦子は陸上部の朝練風景をおさめたカメラを手に、満足そうな笑みを浮かべていた。始業までにはまだ間があって登校する生徒もほとんどいないせいか、つい気がゆるんで顔がニヤけてしまう。 思わぬシャッターチャンスに出くわしたのは、なんとかニヤつく顔を引き締めながら、撮影済みフィルムを置きに部室に戻る道すがらマリア像の近くを通りかかったときのこと。 マリア像の前で、紅薔薇のつぼみ、小笠原祥子さまがわが級友の祐巳さんを呼び止めたのだ。蔦子は反射的に草むらに身を隠して、様子をうかがった。 部活動をしていない祐巳さんがどうしてこんなに早く出てきていたのかなんて知るよしもない。何かとドラマの起こるマリア像前だが「今までのとは違うぞ」という声が蔦子の中に響いた。 細かい会話までは聞こえないが、祥子さまは、祐巳さんを呼び止めると鞄を預け、祐巳さんのタイを結びなおしていた。いったいいつの間にお近づきになったのやら、ずいぶん親密な雰囲気が伝わってくる。 (ちゃんす!!) 目の前で、祥子さまにタイを直されている祐巳さんをファインダーにとらえたとき、ふと蔦子の記憶の底の方から、ふわりと浮きあがってきた出来事があった。 (あ……) ちょっと屈辱的で、でも嫌いではない記憶。 それは、高等部に上がってすぐの頃のことだった…… * * * リリアン女学園は、四月に新学期を迎えた。 幼稚舎から大学まで備えた一貫校では、進学は単なる進級とたいした違いがない。そんな季節の変わり目の……どうということのない出来事……のはずだった。 カメラを手にした蔦子は、草むらに潜みながら、じっとひとつの方向を見つめていた。その先には、小柄で髪をふたつに結んだ少女。名前は、そう、確か……福沢、祐巳さん。高等部ではじめていっしょのクラスになったのだが、そのときまで名前もはっきりとは覚えてないほどの、ただのクラスメイトであった。 なのに。 なのに、である。 その、ただのクラスメイト相手に、わたしはシャッターボタンを押すことができなかったのである。 カメラを手にしていたどころではない。 ファインダーにメガネを押し当て、ピントもばっちり、今まさにシャッターを切る、という体勢までいっていたのだ。進級したばかりの一年生ながらリリアン女学園高等部の写真部でエースを自認する武嶋蔦子は、その日までカメラを手にしていながらシャッターを切れないなんてことがあるとは考えたこともなかった。ちょっと違うのを承知で言えばこの感情は「屈辱」に似ていた。 高等部に上がってたいして日が経っているわけではないが、それでもいろいろな写真を撮ってきた。 そうそう、このあいだのマリア祭でもいろいろな写真が撮れたものだ。アヴェ・マリアを弾く紅薔薇のつぼみはもちろん、いかにも美しい紅薔薇姉妹のツーショット、つぼみがとてもボーイッシュで魅力の黄薔薇姉妹も被写体として勝るとも劣らない。 あ、そういえば黄薔薇のつぼみが新学期早々に妹を決めたというのに、黄薔薇のつぼみ姉妹のツーショット写真はまだ満足いくものが撮れていなかったっけ…… いやいや、今はそんなことよりも。 目の前の、私にシャッターを押させなかった被写体のことが問題なのだ。 別に福沢祐巳さんがレンズの向こう側で何かをしたわけではない。自分に気づいてガードを固めたり、そんなそぶりはない。あるいは、自分が彼女について「写す価値がない」なんて思ったわけでもない。ただ、ファインダーの中の彼女をそのまま写真におさめてしまっていいのか、そんな意味不明な迷いが自分の中に吹き上がってきたのだ。 (ああっ、もうっっ!今この瞬間を!!記録するのが私の使命じゃないのっ!!!) 無理矢理に迷いを吹っ切ると、あらためてファインダーを覗いた。そこにはさっきと同じく祐巳さんがいて、さっきまでと同じ姿勢でまだ遠くに目線を泳がせている。右手の人さし指にくっと力をいれると、今度は指が簡単に動いた。瞬間、小さなモーター音とともにオートフォーカスが動いて、ファインダーの中の祐巳さんにあらためてピントが合う。 祐巳さんの姿がファインダーの中に浮かび上がったが、今はもう、それこそマリア様が子羊たる私たちを見守ってくださるかのような、優しさだけを実存として取り出したような、そんな目をしていた。 さっき私にシャッターを切らせなかったとき、ファインダーの中の祐巳さんは、幸せの絶頂にあるような、そのくせ今にも泣き出しそうな、安心しているような不安にさいなまれているような、そんな……見ている方がはらはらしそうな表情をしていたのに。 蔦子は理由もなく乱暴にシャッターを何度か切ると、ズームを望遠側に操作しながら祐巳さんが見ていた方向にレンズを向けた。 (いったい、何があるっていうのよっ!!) 高倍率ズームのままレンズを振ったため、植木や建物の壁がファインダーの中を飛びさる。(うわっ……)あわててカメラから目を離して、自分の目でそれらしい方向を確認した。 その方向には、遠くに人影がひとつだけ。 見た瞬間、蔦子にもわかった。 ズームレンズなど必要なかった。 祐巳さんが見ていたのは、たぶん、その人だ。 新二年生の小笠原祥子さま。 リリアン女学園高等部二年松組。今年度の紅薔薇のつぼみであり、あの小笠原グループ総帥の孫娘、しかもお母様は華族の出だという話である。世間でお嬢様学校と言われるこのリリアン女学園において、実のところ数えるほどしかいない、本物の「お嬢様」「お姫様」であった。 ふぅ、とため息をつくと蔦子は、祐巳さんの方を振り返った。小笠原祥子さまの姿が見えなくなったせいか、祐巳さんは少し寂しげな顔をしていた。 「ふぅん、……好き……なんだ」 蔦子は小さくひとりごちた。そうして、寂しげな表情の祐巳さんにカメラを向けてシャッターを二度切った。 それが半年前のこと。 * * * 蔦子は、祐巳さんにカメラを向けてシャッターが切れなかったことをいつしか忘れていた。 なぜこんな自分にしては珍しい体験を忘れていたのか。そしてなぜ今それを思い出したのかはわからなかった。 ファインダーの中では、マリア像のすぐ前で、祥子さまの手が祐巳さんのタイをしゅるしゅるとほどき、そして結び直そうとしていた。 蔦子は、きゅっとタイを結びなおした瞬間をとらえて、シャッターを切った。 2 あの写真がだめ押しとなってか、祐巳さんは祥子さまの妹になるかどうかの賭けの対象となってしまった。その祥子さまの衝撃のスール宣言から四日目、すでに木曜日の放課後である。 写真のパネル展示の許可さえもらえればよかったはずなのに、面倒なことに巻き込んでしまった。祐巳さんが祥子さまにあこがれていることは分かっていたが、この展開はちょっと想定外だった。最初にけしかけたときは、薔薇の館でお話ができるか、もしくは身だしなみの注意をされるかぐらいだろうと思っていて、どちらに転んでも祐巳さんにはいい思い出になるだろう、ぐらいのつもりだったのだが。 ただまあ、祐巳さんには悪いが、おかげで薔薇の館に出入りしやすくなったというのはある。少なくとも、薔薇さま方にも顔と名前は覚えてもらっていることがわかっているのだ。 (あー……ま、過ぎちゃったことは仕方ないか) 心の中でつぶやきながら、蔦子は薔薇の館の入り口の扉を押し開けた。今日は祐巳さんと祥子さまの様子を撮りに来たのだ。なにしろ奥手な祐巳さんと、ガードの堅い祥子さまでは、まともにやってはシャッターチャンスは期待できない。そんなわけで、いっしょにいる時間が長いであろう薔薇の館を訪れたのである。 薔薇の館……ちょっと前までなら、蔦子も避けて通ったところだが、この間の一件以来、入るぐらいならまあなんとか平気になっている。 中にはいると例によって一階には人気はなく、見上げた二階のビスケットの扉の奥からかすかに人の声が聞こえたような気がした。 蔦子は、踏み板をきしませながら、階段を上がった。 「失礼しますー」 ノックののち、蔦子はビスケットのような扉を開けた。 中には、紅薔薇さまと、白薔薇さまのお二方のみ。 「おや、蔦子ちゃんじゃない。今日は一人?」 白薔薇さまはずいぶんと力の抜けたご様子である。 「祥子も祐巳ちゃんも、まだ来てないわよ?」 とは紅薔薇さま。どうして祐巳さんと祥子さまを撮りに来たってわかったのだろう??一瞬、疑問に思ったのだが、まあいい。 「じきに来ると思うから、ここで待ってればいいわ」 白薔薇さまが、のんきそうな口調で言った。 「蔦子ちゃん、何か、飲む?」 一度目は何かの間違いかと思ったが、二度続けての「ちゃん」づけである。あの白薔薇さまに「蔦子ちゃん」と呼ばれたのも驚いたが、それより何より、このおじゃまムシに飲み物を振る舞おうという懐の広さ。蔦子の中で、白薔薇さまである佐藤聖さまにずっと重ね合わされていた「冷たい感じ」「とっつきにくいお方」というイメージが不整合を起こしていく。 「まぁ、何かって言っても、基本的にはお茶か、インスタントのコーヒー、ココアってとこなんだけど」 白薔薇さまの声に、蔦子は我に返る。 「あ、いえ。けっこうです、白薔薇さま」 「遠慮しなくってもいいのに」 白薔薇さまは、紅薔薇さまと目を見合わせて苦笑している感じだった。 (いただいた方が失礼がなかったのかな?) とは思いながら、でもやはりここは遠慮しておこう。何しろ用があるのは目の前の薔薇さま方ではなく、祐巳さんと祥子さまなのだから。しかも、その二人に話をつけているわけでもない、ほんとうのおじゃまムシなのだ。 「祥子も祐巳さんも、もうじき来ると思うわ。今日も劇の練習をすることになっているのでね。祐巳さんもだいたい台詞が入ってるし、なんとかなりそうよ。蔦子さんの写真部の方は準備はいかが?」 「おかげさまで、順調に進んでます」 「それはよかったわ」 優雅に髪を揺らしながら、紅薔薇さまは微笑んだ。 「……そういえば、蔦子さん」 紅薔薇さまがふと思い出したように口を開いた。 「紅茶で嫌いな葉っぱっておあり?」 「え?いえ、ないですね」 紅薔薇さまが目配せすると、白薔薇さまはすっと立ち上がって、流しに向かった。 「あ……っ」 うかつ。さっきのがまだ続いていたとは。白薔薇さまにお茶を入れさせてしまうなんて。 「いいのよ、蔦子ちゃん。気にしないで」 「何が嫌いか?と聞かれて、全部嫌いなんて普通言わないって。分かってて聞いたのだから」 何もかもお見通しっていう感じの表情で白薔薇さまと紅薔薇さまが静かに言った。 「それより、ちょっと蔦子さんに伺いたいことがあるのよ」 蔦子はぴくりと体を縮こまらせた。 (薔薇さま方が揃って私なんぞに聞きたいことがあるとは……) 白薔薇さまは、蔦子と紅薔薇さまの分のティーカップを並べると、自分の分は出窓のところに置いた。 「祐巳さんのクラスメイトであるあなたの目から見て、祐巳さんと祥子ってどうかしら?」 「質問の意味が……よく分かりません……」 「ああ、漠然としすぎていたわね。ごめんなさい」 切り揃えられた髪を揺らしながら紅薔薇さまはちょっと思案する。 「じゃあ、こう言い換えればわかっていただけるかしら。祥子は祐巳さんに釣り合うか?……もしくは、祥子は祐巳さんにふさわしいと思われて?」 (逆じゃなかろうか??) 誰が考えても今の問いは主語と目的語がとっちらかっている。とはいえ聞きあらためるのも失礼だと考えて、蔦子は祐巳さんと祥子さまを入れ替えて思考を巡らした。 「祐巳さんは……そりゃ、確かに何もかも平均点ですし、とりたてて綺麗って子でもないですけど…… それを言ったら祥子さまに釣り合う方など、今の一年にいるとは思えないのですが……あ、志摩子さんは、そりゃ、別ですが……」 急に聞かれた事柄だけに、しゃべるうちにこっちもとっちらかってきて、受け答えがまとまらない。 「ふふ。ありがとう」 苦笑する紅薔薇さま。自分は何かとんちかんなことを答えただろうか? 「じゃ、もうひとついいかしら。……祥子と祐巳さんって気が合うと思われる? 率直なところ……というか、蔦子さんの直感でいいんだけど」 「ええ。それは……合うと思います」 直感でいいと言われて、ちょっとだけ気が楽になったのだろう、素直に思うところを答えることができた。もちろん、ほんとに何の根拠もないですけど、と言い添えるのも忘れなかったが、それでも二人の薔薇さまは満足そうな表情を浮かべていた。 その表情にようやく緊張がとけて、白薔薇さまに入れていただいたお茶を飲みながら、今の会話のことを考える余裕ができてきた。 目の前にいる紅と白の薔薇さま方は何を考えているのだろうか。 話の流れからすると、どうやら祐巳さんを祥子さまの妹にしようと本気で考え始めているらしい。 別に祐巳さんではだめとか思っているわけではないが、先に白薔薇のつぼみとなった藤堂志摩子さんと比べると、祐巳さんはあまりに普通すぎる。目の前でにこやかにほほえむ山百合会幹部の中に置くキャラクターとしては、本当に普通すぎる気がしたのだった。 そんなことを考えていると、まるで計ったかのように祐巳さんが現れた。 「あ、蔦子さん、来てたんだ」 祐巳さんは鞄を椅子に置いた。そうして「コーヒーいただきまーす」と、流しに向かった。 「祐巳ちゃーん。わたしにお茶のおかわりお願い」 白薔薇さまの言葉に、紅薔薇さまもひょいっと空のティーカップを持ち上げて「私も」と告げた。 「紅薔薇さまも白薔薇さまも、ダージリンでよろしいですか?」 祐巳さんはカップを回収しながら二人に尋ねた。そうして、蔦子のカップも空なのを見て、それもお盆に載せた。 「蔦子さん、苦手なお茶っ葉とかある?」 そう祐巳さんが尋ねる。 「あ、ううん、別に……」 答えてから気づいた。まるでさっきと同じ会話。 あまりに自然な光景と、自分の中での微妙な違和感。 そりゃあ、たしかにお茶とかいれるのは下級生の役目であろうが、今の祐巳さんは薔薇さまやつぼみの妹ではないし、むしろ祐巳さんは祥子さまの妹にならないというのが今の「目標」のはずだ。なのに、この場にまるで当たり前のようにとけ込んでいる。そのことに、蔦子は軽いショックを覚えた。 流しに立つ祐巳に、白薔薇さまが声をかけた。 「ねえ、祐巳ちゃん、台詞ちゃんと覚えた?」 「まかせてください。姉Bならもうバッチリですよ」 言いながら笑う祐巳さん。 「はははっ。そっちはわかってるってば。わたしが聞いてるのは、シンデレラよ」 動揺したのか、がちゃりとシンクから音がした。 割れた音じゃない。 「あ……その……まあなんと言いますか……」 祐巳さんの動きが止まっている。よほど気にしているらしい。 ま、とりあえずは努力しているようだ。 「あはは。まあ、あと九日あるし」 そう言った白薔薇さまのフォローは、祐巳さんに追い打ちをかけただけのようだったが。 蔦子はカメラを取り出し、流しでお茶を入れている祐巳さんに向けてシャッターを切る。 「こんなところ撮ってどうするの?」 祐巳さんが不思議そうに聞くが、私はただ撮りたいと思ったから撮っただけ。そう答えると、祐巳さんはよけい不思議そうな顔をした。 ふと見ると、白薔薇さまも紅薔薇さまも、さっきまで蔦子と三人でいたときと雰囲気が違っている。なんというか、いつもの山百合会幹部然としたバリアというか威厳というか、そういうのが薄れた感じで。 お茶を入れてティーカップを持ってきた祐巳さんに、紅薔薇さまが尋ねた。 「そういえば、祥子はどう?ちゃんと祐巳ちゃんにアタックしてる?」 「え?あ、……そういえば、あんまりされてないです」 「困った子。本当にやる気があるのかしら」 生徒会長らしい口調で言ってはいるが、内容はちっともまじめじゃない。「チューでもして一気に押し切ればいいのに」とは白薔薇さま。 「いや、その……」 祐巳さんが困ったような顔をしながら、白薔薇さまと蔦子にティーカップを配る。その様子を見ながら、紅薔薇さまと白薔薇さまはくくくっと笑っている。 驚いた。 我が貴重なる「姉妹なし」の友人は、いつの間にやら山百合会の中に自分の居場所を見つけていたらしい。 3 夕闇が、あたりを包み始めていた。学園祭が成功裏に終わり、今は後夜祭の真っ最中。 蔦子個人にとっても、学園祭は、満足のいくものだった。 写真部の展示に二人で立ち寄った祐巳さんと祥子さまは、大きく引き延ばしたパネル展示の写真「躾」がお気に召したのか、パネルの前で二人並んで記念撮影したのちに、あまつさえその場で祥子さまは祐巳さんのタイを直すというサービスっぷり。写真部の展示を見に来ていた生徒たちからは、きゃーーーと歓声があがっていたが、祥子さまはまわりの女子生徒に微笑んでみせるほどの余裕があった。もっとも祐巳さんはそういう注目を浴びるのが苦手なのか真っ赤になっていたが、それもまた被写体として面白いわけで、当然、蔦子はその様子をあますとこなくカメラに収めた。今週に入ってから調子のおかしかった祥子さまもどうやら全快したようだ。 そして、山百合会の出し物であるところの、舞台「シンデレラ」。これももちろんシャッターチャンスのオンパレードであった。 そのあとは、学園祭をぐるぐるとまわりつつ被写体をさがしたり、閉会の後は写真部の展示を片づけたりとけっこう忙しく、ようやく一息ついたと思ったら、もう後夜祭の時間となっていた。 後夜祭。 校舎を出ると、グラウンドが遠くに見えた。トラックの真ん中で燃えさかるファイアーストームの炎が、まわりの景色を赤く染めている。 今日は絶対に特別な日になる―― そう確信して、レンズが交換できる一眼レフタイプのカメラを用意したのだ。しかも暗い場所での撮影もできるようにとっておきの明るいレンズを装備、加えて用意したのは高感度フィルムである。これなら、ちょっとぐらい薄暗くてもフラッシュなしでばっちり撮影できるはずだ。この手の撮影は、フラッシュを使わないというのが重要なポイントであった。写真週刊誌じゃないのだから気づかれずに撮り続けられなければ意味がない。 蔦子は祥子さまと祐巳さんの姿を探した。 さきに祐巳さんが見つかった。グラウンドのはずれのところで、ひとりファイアストームを眺めている。やがて、祐巳さんに近づくひとつの影があった。祥子さまだった。 祥子さまが祐巳さんに声をかけ、二人はマリア像の前まで来た。 遠く、グラウンドからは弦楽四重奏の東京音頭が聞こえてきている。蔦子は二人をグラウンドで見かけてからずっと、距離をたもちながら後をつけていた。 紙パックのジュースで乾杯するシーンはなかなかいい感じに撮れたと思う。それこそ今日パネル展示した「躾」に負けないぐらいに撮れているはずだ。 何を話しているかは聞き取れなかったが、祥子さまがポケットから取り出したのがロザリオだというのは、月の光の下でもすぐに見て取れた。 それをするりと広げると、祐巳さんはすっと頭を垂れた。 やがてグラウンドから聞こえてきた「マリア様の心」をBGMに、二人は手を取りあい、月の光の下でワルツを踊り始めた。 その二人をファインダーにおさめながら、蔦子は無我夢中でシャッターを切り続けた。 いったい何度シャッターを切っただろうか、突然カメラが黙り込む。見るとフィルムをいっぱいいっぱいまで使い切っていた。 (フィルムの残り枚数を忘れるなんて、まるで初心者だわ) 蔦子は苦笑した。 そして蔦子は、カメラをぐっと握りしめると、潜んでいた草むらを静かに離れた。 祐巳さんたちから見えないところまで移動してから、蔦子はフィルムを巻き上げないままカメラの裏蓋を開けた。むき出しの茶色いフィルムが、月明かりの下で鈍く光っていた。その月のかすかな光の中、目にははっきり見えないが、さっきまで撮り貯めた祐巳さんと祥子さまの記録が、みるみる消え失せていく。 (なんでかなぁ) そう思いながら、後悔していない自分に、ちょっとだけ驚いた。この光景はただ記憶にだけとどめておけばいい。そんな気がしたのだ。むろん、それは自分自身の信念にまるっきり反するものであるのに。 蔦子は、ふうと大きく息をついた。 (祐巳さんのそばにいよう……) いっしょにいれば、きっとこの気持ちが何なのかわかる日が来るに違いない。そんなことを思ううちに、蔦子の中で何か吹っ切れた感じがした。 ポケットをさぐると、フィルムケースが指先に触れた。今日用意したフィルムの最後の一本を、あらためてカメラに装填した。 月明かりの下の祐巳さんと祥子さまは、まだ踊っていた。 さっきよりも楽しげに見えるのは、相手がそこにいる確信を抱けたからではないか、そんなふうに見えた。自分の気持ちを受け止めてくれる人が目の前にいる。その人と触れあえる。その人が自分に笑いかけてくれる。その人が自分を求めてくれる。 それは、どれほど心地よいことであろうか。 二人をフレームに収めながら蔦子は、祐巳さんは、たぶん祥子さまと、いい姉妹になる。そう思った。 ファインダーの向こう側で、二人は本当に楽しげにワルツを踊っている。 蔦子はじっと待ち、一度だけシャッターを切った。 ただ一枚だけの、月明かりの中の、ワルツ。 その写真は、現像してから確認用の一枚だけしかプリントしていない。その唯一のプリントも、そのまま自宅に持ち帰って大事にしまい込んである。 だから。 だから、誰もこの写真があることを知らない。 これは自分だけの秘密にしておこう。 いつか、ふたりに胸を張ってこの写真を見せられる日まで。 いつか自分の気持ちが、写真の中の二人に追いつく、その日まで。 |
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